立花宗茂 その参


「立花ぎん千代」  ゲームソフト「戦国無双2」より
(何故か最近こればかりですが、ゲームおたくではありません、画像がないので・・・) 
       


 慶長五年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の結果は、皆さんご存知の通り東軍の勝利となりましたが、西軍に属していた立花宗茂は決戦の場にはいませんでした。何をしていたかというと、戦いの約一月前、東軍京極高次が籠城していた高津城を攻め落とし、その後もこの城の抑えのために滞陣していたからです。
 嗚呼、西軍の実質的大将、石田三成のなんという戦略眼の無さでしょうか。三千人足らずが籠もっていた端城の守備などは、他の無気力な大名がいくらでも居たのに「勇猛日本一」と加藤清正小早川隆景も認め、持っている兵の三倍の働きをするといわれた宗茂を、決戦で働かせないとは、既にこの段階で西軍の命運も尽きています。

 決戦は西軍完敗となったので宗茂は大津城を撤退、伏見に逗留してから大阪城に上がり、西軍の総大将毛利輝元に籠城抗戦を訴えますが、輝元は煮え切りません。輝元は家康を恐れ、どうのようにいい訳をするかで頭が一杯です。一体、この男は英雄である祖父元就に、似ても似つかない凡庸な人物なのです。

「揃いも揃った臆病者じゃ。かかる人に語られて、骨を折ったおれが馬鹿だった」

宗茂は思ったでしょう。諦めて舟で帰国する事になりましたが、途中で同じ西軍に属して帰国する島津義弘入道惟新の舟と合流しました。島津側は関ヶ原戦いで、兵の大半を失い手薄となっていたので、家臣が父・高橋紹運の仇を討つ好機と宗茂に進言しますが、

「島津とは既に、故太閤殿下のおとりなしで和解している。同じく秀頼様のお味方をして、不幸にも戦いに敗れたのだ。相手の備えが薄いとみて討ち取るなど、そのような薄汚いことはできぬ」

と怒って戒め、逆に手薄な島津軍を護衛しながら帰国したといわれています。豊後沖で別れる時に義弘は、一緒に薩摩に落ちて連合して戦おうと誘いますが、宗茂は丁重に断り柳川へ帰って行きました。


 柳川に戻り妻・ぎん千代と、どのような会話があったかは記録がありませんが、多分西軍に味方したことを詰られたのではないでしょうか。以前に宗茂はぎん千代を苦手にしていると書きましたが、色々な書物を見ても、間違いなく不仲だったと思います。戦さで家を留守にすることが多い当時の武将ですが、それを割引いても別居している期間が長く、子供にも恵まれていません。推測するしかありませんが、家付き娘と入婿の関係は、なにかと不具合があるもので、それは今も昔も同じです。
 しかも、ぎん千代は人並み以上に頭も良く、男勝りの剛気な性格(道雪の遺伝でしょうか)だったようで、その後東軍の先鋒として柳川に鍋島直茂が攻めてきたときも、紫威しの鎧を着けて床几に座り、侍女二百人にも武装させて周りを堅め、譜代の家臣も馳せ参じ迎え撃ち相当に抵抗しました。
 後に加藤清正黒田如水も、ぎん千代の守備しているところを用心して、迂回し進んだというほどですから、これだけの女傑であれば、英雄的気概の持ち主宗茂でも、さすがに手を焼いたでしょう。しかし、敬愛する立花道雪の娘であるぎん千代を、むげにするようなことを宗茂は出来なかったのではないでしょうか。言い争いを避けて、家に帰りたくなくなり、自然と別居のような状態になることは、現代人でも理解できる心境です。


 柳川城に籠城して、先鋒の鍋島軍を一時押し戻すなど抗戦していた宗茂でしたが、加藤清正が武勇を惜しんで降伏を勧め、宗茂主従の身の安全を約束したので従うことになりました。これは私の推測ですが、裏切り者が続出した西軍を味方したことに嫌気が差したのと、故太閤殿下への恩義は、今回の戦さで、十分返せたと思ったのではないでしょうか。いよいよ城を退くときに多数の百姓が道を遮り、兵糧米を献上して自分達も立て籠もるので、徹底抗戦するように泣いて頼んだと「名将言行録」にありますが、宗茂は民政にも行き届いていたことを証明する逸話です。


 城を退いてから宗茂玉名郡高瀬に居住し、ぎん千代は同郡腹赤村に居住しましたが、家来達はそれぞれに分かれて二派を形成し、二人の不和は決定的となります。清正は宗茂の武勇を惜しみ、自分の領地のうち玉名一群を与えようとしますが

「公儀より賜るなら格別だが、貴殿より賜るなら例え、肥後一国を賜ろうともお受け出来ませぬ。まぁ、ご芳志だけお受けいたしましょう」

と断りました。これも「名将言行録」にあります。清正は自分の家来にしたかったのでしょうが、宗茂のプライドが許さなかったのです。

 慶長七年(1602年)、宗茂は肥後を去って京に出ました。名のある家臣では由布雪下、十時連貞ら十九人が従って行き、京の禅寺に止宿しましたが、清正から貰った餞別も底を尽き、生活は困窮を極めたそうです。家来達は人夫仕事をしたり、虚無僧をしたり、なかには乞食までして宗茂を支えました。


 当時の事ですが、涙無くしては語れない逸話二つがあります。

一つは、あるとき普通に炊くほどの米が無く、雑炊にして宗茂に出したところ、宗茂は膳をみて不興げに言います。
「いらざることをいたす。汁かけ飯がほしければ、自分でいたすわ」
こうなっても大名気質が抜けない鷹揚な宗茂に、家来達は胸がせまり思わず涙を流したそうです。

二つ目は、家来達が残った米を干飯にして出掛けたところ、俄に雨が降ってきて
「殿様は気づかれて、干飯を取り入れなさるじゃろうか」
という話になりましたが、
「もしさような些末なことに気づかれるようでは、殿様のご命運も開けまい。どうか気づかれぬように」
と語り合っていました。戻ってみると宗茂は何食わぬ顔で書見をしており、干飯は散々雨に打たれていたので、家来達は殿様のご命運は未だ尽きずと泣いて喜んだそうです。


 慶長八年(1603年)、宗茂主従は江戸に出て暮らしましたが、貧しいことには変わりありません。しかしある時、運命が急転します。宗茂のことを当時の老中土井大炊守に知り、将軍徳川秀忠に伝わると、翌慶長九年江戸城に召出され、五千石で相伴衆(将軍の話し相手)に取り立てられました。翌々年には奥州棚倉一万石を賜り、十四年後の元和六年八月には、柳川城主だった田中家に嫡子が無く絶家した為、旧領柳川に十一万石を与えられ城主に返り咲きます。「関ヶ原の戦い」から二十年後のことですが、後にも先にも敵方の西軍に味方して取潰され、大名に復活した者は宗茂しかいません。
寛永十九年十一月二十五日、立花宗茂は七十四歳で他界しました。
戒名は「大円院殿松陰宗茂大居士」、辞世は残っていません。

 柳川に帰った時の宗茂は、どのような心境だったでしょうか。もはや想像することしか出来ませんが。
 
  
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