蒲生飛騨守氏郷


 蒲生氏郷像 (会津若松市会津図書館所蔵品)



 下世話な政治論議に二回分も使ってしまいましたので、また元に戻して歴史ロマンを書きたいと思います。

「武士の忠義」というテーマを再三取り上げてまいりましたが、忠義心の源は「武士道」の観念を発露とするものばかりではなく、多くの場合が主君の使い方と愛情です。私の最も好きな戦国武将は、「蒲生氏郷」と「立花宗茂」ですが二人には共通点が二つあり、一つ目は戦に滅法強かった事、二つ目は家臣を愛し、また家臣に慕われたことです。ボールを地面に落とせば弾むように、強い愛情を家臣にぶつけると、大きい忠義心で跳ね返ってくるものです。

 蒲生氏は平将門の乱を鎮定して、鎮守府将軍になった田原藤太秀郷を祖とします。氏郷の祖父の代に近江地方に移り住み、六角義賢仕えて家老になっていましたが、戦国時代となり六角氏は織田信長に敗れ没落し、氏郷の父・賢秀は居城日野城に籠もり頑強に抵抗していましが、遂には開城降伏することとなります。当時十三だった堅秀の子・鶴千代(後の氏郷)は人質として信長の小姓に召し上げられますが、「眼精常ならず」と信長に見込まれて、元服して信長の次女・冬姫と結婚させました。氏郷は本能寺の変で信長が横死すると、羽柴秀吉に仕え、小牧長久手の戦いの殿軍や、九州征伐の巌石城の攻略など数々の武功を上げ、秀吉に激賞されています。

 信長と秀吉という、戦国時代の二人の天才に仕えた氏郷ですので、その影響は性格に色濃く反映されています。ある時、福満次郎兵衛という武勇に優れ、氏郷も愛していた家臣がいまししたが、行軍中に馬の沓が外れ、隊列から外れましたが、これを見た氏郷は「哀れなれど、いたしかたない」と軍法違反の罪で、その場で斬り殺してしまいました。またある時は、家臣を自分の家に招き、饗応した後に自ら頬被りして風呂を焚いて馳走したそうです。当時は家に客を招き、風呂を馳走する事は最高の接待だったのですが、主君自ら火をおこしたので、家臣の感激はひとしおであったでしょう。まるで前者は信長、後者は秀吉のようです。
 一方では厳しく接し、一方では愛情を持って接することで、受け取る側は両方ともに深く心に刻まれます。この「飴と鞭」は現代のマネジメントにも通じる手法ですが、匙加減が難しいので、見様見真似でやっても決してうまくいきません。


 蒲生氏郷の逸話を二つ。
 大和の筒井順慶の家来で、松倉権助というものがいましたが、何が原因か家中で臆病者の噂が流れ、家に居にくくなったので、氏郷のもとへ訪れ
「拙者は臆病者と言われておりますが、良将のもとでは使い道があると存じますので、お召抱え願いたい」

と言うと、氏郷は「正直者で見どころがある」と召抱えましたが、まもなく起こった戦で松倉は、目覚ましい活躍をして名のある首を上げ、「目がねに狂いはなかったわ」と氏郷は二千石をあたえ物頭にしました。感激した松倉はその後直ぐの戦で、最も勇敢に戦いましたが、敵陣深く入りすぎ討取られてしまいます。氏郷は

「松倉は剛勇で、久しく人の下に置いておけないと思い、取立てを急いだが、恩に報いようと無理な戦いをして死なせてしまった。もう少しゆるゆると取立ててやれば良かったのに、おれの思慮が浅かったため、あったら武士を失った。」

と近臣らに語り、はらはらと涙を流したそうです。

 もうひとつ、佐久間久右衛門安次という者が召抱えられ、初めて氏郷と面会するときに緊張をしていたのか、畳の縁につまずいて転んでしまいました。近習の小姓たちはたがいに目配せしてクスクスと笑い、面目を失った佐久間は下を向いていましたが、氏郷は

「わいら子供の分際でなにがわかる。佐久間は畳の上の奉公人ではない。千軍万馬の間を駆抜け、敵の勇士を討取るのを職分とするものだ。わいら座敷奉公の者が、佐久間を笑うとは何事だ。」

と叱りつけたので、佐久間は涙を流して感激しました。以後の戦で命を惜しまず戦ったのは言うまでもありません。


最後に、心に浸みる氏郷の時世の句を紹介します。

 「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山かぜ」




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