武士の忠義

 今回は武士の忠義について研究したいと思います。まあ、研究というほど大袈裟なものでもないのですが、以前の私はどの時代の武士も、主従関係は「忠臣蔵」の浅野内匠頭大石内蔵助の様なものだと思っていました。多分に、テレビの時代劇(特にNHK大河ドラマ)に影響されていたのでしょうが、色々な本を読んでいるうちに、どうも違うことに気が付きました。そもそも武士の忠義は、朱子学の考え方から成立したもので、日本に伝来したのは十一世紀くらいですから、結構古くからあったようです。ただその頃はあまり広まってなく、一部の有識者だけが知っていることで、当然田舎武士などは知るわけもありません。

 世に広く知れ渡ったのは、江戸時代に入り、林羅山が武士の基本理念としたことに起因しています。林羅山はご存じの様に、幕府の御用学者で、初期の幕府の封建支配の構造を創った人です。この忠義の精神を、武士の基本理念としたのも、政治的な思惑があったからだと思います。テレビの時代劇の話をしましたが、他にも講談や歌舞伎の演目など、今に伝わるものは殆ど江戸時代に体系化された物ですから、過去の時代の出来事も同じ価値観で描かれたのでしょう。確かに、鎌倉時代源義経武蔵坊弁慶佐藤継信の関係や、南北朝時代後醍醐天皇楠木正成※の関係は、主従の美談として伝わっている事実ですが、全ての武士がそうであった訳ではないと思います。そのように宣伝をすることで、幕府の支配の強化かを図ったのではないかと思うのは考えすぎでしょうか。数少ない事象を大きくとり上げ、数の多い事象を目立たなくさせるのは、プロパガンダの典型的な手段ですから。江戸時代に武士も相当なインテリになった訳ですが、このころから儒教思想の根幹となる忠や孝の精神が「武士道」という形に昇華していった訳です。

 武士の忠義に関しての悲劇を描いた小説に、森鴎外の「阿部一族」があります。忠臣・阿部弥一右衛門は主君・細川忠利の死に際して「殉死はするな。」の遺訓を守り切腹をしなかったのですが、朋輩の臆病者の誹りを受けて憤慨し結局切腹してしまい、その後一族に不幸が訪れる話しです。忠利が死んだのが寛永18年ですからまだ江戸時代初期で、「武士道」の理論が完成してなかったのでしょう。主君が死ぬなというので死ななかったのですが、それに逆らって死ぬことがやはり忠義なのか、阿部弥一右衛門の狭間で悩む様子が描かれています。これが後年の「葉隠」のような一種の武士行動マニュアルがあれば正しい選択ができ、朋輩にも非難されずにすんだかもしれません。

 またいつもの様に前置きが長くなり、本題に入れませんでしたが、やはり武士の忠義を研究するには、武士の起源から知る必要がありそうです。ちょっと長くなりそうなので今回は予告編ということで、次回から順序立てて考えていきたいとおもいます。またご拝読頂きますよう、宜しく御願いいたします。


楠木正成の場合は勤王の精神もあったと思うので、殿様と家来の関係とはちょっと違うかもしれません。ただ忠義という観点で考えると何かヒントがあるかもしれないので、今後さらに研究したいと思います。




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