山木判官兼隆

  
山木判官兼隆を祀る寺(法名は香山寺殿興峰兼隆大禅定門)


 山木判官平兼隆伊勢平氏の祖・平維衡の末裔で、父は従五位下和泉守信兼です。京にいる頃も判官(検非違使)だったのですが、罪を得て伊豆国山木に流されて来ました。流罪の原因はよく解っていないのですが、父信兼の訴えによりと記録されているので、不孝があったか、兎に角不仲だったと思われます。その後、平家が隆盛を極めると、同族ということで罪を赦され、伊豆の総代官となりなかなかの羽振りだったと、盛衰記や曽我物語に記述されています。曽我物語は小説なので創作も多く、史実に沿っていないと言われていますし、そもそも政子との結婚話も怪しいと思われる節もありますが、曽我物語巻二に「かねたかをむこにとり給う事」とありましたので、それを元に強引に話を進めます。
 
 大番役で京へ滞在していた北条時政は、国からの報告で、長女政子が源頼朝と交際していることを知ります。
「源氏の流人とつき合うとは、さて困った事だ」
とあれこれ思案しましたが、ふと良いアイデアが浮かびました。実は今回の上京には同伴者が居て、それが山木判官兼隆でした。
「よし、こいつに政子を押し付けてやろう」
と兼隆に政子との婚礼の話を持ちかけます。兼隆も代官として羽振りは良かったのですが、伊豆では未だに源氏の旧臣が沢山いますし、尊敬を集めているとはいえないので、伊豆の大豪族北条家との結びつきは願ったり叶ったりです。兼隆は直ぐに快託しました。
任期が終わり伊豆へ帰った時政は政子に婚約の話しをしますが、当然政子は得心しません。日本の歴史上、一二を争う頑固者で後に「尼将軍」といわれたほどの政子ですから、時政もほとほと閉口したことでしょう。時政はその後の行動を見ても解るように、相当に狡猾で食えない老人ですから、何かしらの算段があったとは思いますが、
「面目が立たないのでとりあえず嫁ってくれ。その後は逃げ出しても構わないから」
と、とりあえずは言ったようです。そして婚礼の日、隙をみて兼隆の屋敷から抜け出した政子は、途中で頼朝と落ち合い、手に手を取って伊豆山権現別当、文陽房覺淵の元に逃げ込みました。当然兼隆は腹を立て政子を捜し、時政にも苦情を訴えますが、時政は平謝りで政子の行方は知らない(実は伊豆山に潜伏していることを知っていたのですから、やはり食えない親父です)と白を切ります。暫くして、政子が伊豆山権現に隠れている事を知った兼隆は、兵を差し向け引き渡しを要求しますが、寺は僧兵を出して拒絶しました。
一体当時の寺は、武士(家の子郎党)が荘園を守っているように、大きい所では相当数の僧兵を抱え自治・自衛が確立していますから、伊豆代官の兵をもってしても、簡単にはいきません。また呪詛や調伏が真面目に信じられていた時代ですので、下手をすると呪い殺されてしまうと畏れたのでしょう。兼隆は、歯が噛みして悔しがりましたが、結局政子と頼朝は二年ほど伊豆山で同棲生活を送りました。

 その後話は急展開し、以下は吾妻鏡を元にします。治承四年(1180年)、頼朝の元に以仁王から平氏追討を命ずる令旨が、叔父新宮十郎行家によって届けられます。慎重な頼朝は直ぐには動かず、事態を見守っていましたが、以仁王の挙兵は失敗して、逆に令旨を受けた頼朝らが追討されるという情報が入ってきました。もはや打って出るしかないと、平氏追討の決意した頼朝は、安達藤九郎盛長を使者にして、旧家人に挙兵の協力を依頼し、旗揚げの手始めに山木判官兼隆を討つことにします。
ここで前述の曽我物語の話と合体させると、政子の件で胸に一物もっている頼朝は、兼隆を血祭りに上げて、挙兵の初陣を華々しく飾ろうという腹づもりですが、これはどう考えても逆恨みです。

 治承四年八月十七日、北条時政を総大将とし(これも酷い)、佐々木太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱の勇士四兄弟も参加して、未の刻に兼隆の館を襲撃しました。折しも、この日は三島大社の祭礼があり、館の郎党も居るものが少なかったということですので、つきの無いものは最期までついていません。襲撃が成功したら、館に火をかけることになっていたので、頼朝は北条方より見守っていましたが、吾妻鏡
「また放火の煙を見せしめんが為、御厩舎人江太新平次を以て、樹の上に昇らし」
との記述がありますので、気を揉んで待っていた様子がよく解ります。兼隆側も奮戦したのですが、遂に兼高は寄せ手の加藤景廉に首を上げられ、他の郎党も全て討ち取られました。「暁天に帰参し、士卒等庭上に群居す。武衛縁に於いて兼隆主従の頸を覧玉うと」
吾妻鏡あるように、夜明けに北条館の庭で兼隆主従の首実検を行ったということです。
 
 以前尊敬している私の先輩が、
「人生のいいとき、悪いときは公平に交互には来ない。つきのある者は一生ついてて、ついてない者は一生ついてない事が多いよ」
と厳しい事を言ってました。兼隆は流人となり、その後赦されて代官となったのですが、後の人生は踏んだり蹴ったりでつきがありません。反対に同じ流人だった頼朝は、紆余曲折ありましたが、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創ったのですから対照的です。先輩の言葉が身に染みて分かるような気がします。



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