伊豆山神社


 私の母は、生まれも育ちも東京だったのですが、齢六十を過ぎてから、都会の雑踏に嫌気がさしたのか、田舎暮らしがしたいと家を処分して、湯河原に転居しました。JR湯河原駅を降りて、熱海方向に五百メートル程歩いたところにある千歳川が、ほぼ神奈川県と静岡県の境界となっています。千歳川を渡った山の中腹に母の家はあるので、湯河原に住んでいるといっても最寄りの駅が湯河原ということで、住所は静岡県熱海市になります。
 山、川、海、温泉と何でも揃っている湯河原は、私の家族もお気に入りで、幼い子供達は夏休みや冬休みの帰省をいつも心待ちにしています。その母が住んでいる山が伊豆山で、そのまま山の尾根を越えて、反対側の熱海に向かって車を走らせると、熱海側の中腹に、関八州鎮護伊豆山神社があります。明治維新の際の、神仏分離令により寺を分離するまでは、神仏習合であったため伊豆山権現(或いは走湯大権現)と呼ばれていました。そういえば以前近くを車で通り過ぎたときに、参道鳥居近くに「権現茶屋」というお店がありましたが、古い名称からの由来でしょう。この伊豆山神社が有名なのは、曽我物語吾妻鏡にも記述があるように、治承元年(1177年)に源頼朝北条政子が駆け落ちして逃げ込み、文陽房覺淵に匿われたからです。このお坊さんは治承四年(1180年)、頼朝がいよいよ平氏追討の兵を上げるときに、頼朝も元を訪れ、
「君者。忝八幡大菩薩氏人。法華八軸持者也。禀八幡太郎遺跡。如舊相從東八ケ國勇士。令對治八逆凶徒八條入道相國一族給之條在掌裏。」
と言って励ましたと、吾妻鏡に書かれていました。簡単に訳すと
「貴方は八幡太郎義家の一番近い檀家なので、先祖の八幡太郎の血筋を継いで、昔のように東国八カ国の勇士を配下とし、八逆の凶徒で八条に住む入道相国(平清盛)の一族を退治することは、貴方をもって他はございません。」
という意味です。信頼関係もあり、相当以前から親しい間柄だったと思われます。
 
 話を戻して、なぜ頼朝と政子が駆け落ちしてまで逃げてきたというと、政子と頼朝は既に良い仲だったのに、父北条時政の指示で、別の男と結婚させられそうになったからです。その相手が平家の伊豆の目代、山木判官平兼隆という人物です。この人は元々罪を犯して伊豆に流されてきた流人でしたが、平家の一族なのでその後赦され、山木(八巻とも書く。今の韮山付近)に住み、伊豆の目代(代官)になりました。

 この駆け落ち以降の経緯も結末も大変面白い事になるので、是非次回はこのことを書きたいと思います。尤も、当事者の平兼隆には大変な凶事になってしまうのですから、面白いはちょっと失礼かもしれませんが。