泉州堺事件と切腹 その壱


  「堺事件」 Le Monde Illustr
 
 外国人が日本の「武士」を想像するとき、髷を結って刀を差してと云った姿と同時に、「腹切り」(harakiri)を思い浮かべるでしょう。人によっては残酷でグロテスクな行為と考えるでしょうし、中には理解し難い武士の精神性に、畏敬の念を覚える人もいるかもしれません。外国人が最初に日本人の切腹を目撃したのがいつかは解りませんが、多分安土桃山時代に来日した人物でしょう。しかし「腹切り」(harakiri)の文字がそのまま英語になり、辞書に載るほど有名になったのは、この「泉州堺事件」ではないでしょうか。


 慶応四年(1868年)二月十五日、鳥羽伏見の戦いに官軍が勝ち、徳川慶喜はじめ幕府の役人は江戸に逃げ帰った後、泉州堺は治安が悪化し土佐藩が警護していました。折しも天保山沖に投錨していたフランス軍デュプレクス号は、艦長プティ・トゥアールの書簡で兵士の堺上陸を要請していましたが、外国事務係の宇和島藩伊達宗城の許可が必要です。戦後間も無いので混乱もしていますし、言葉の壁もありますので、うまく伝わらなかったのでしょう、フランス兵は無断で上陸してしまいました。警護の土佐藩士は現場に急行して、身振り手振りで戻るように促しますが伝わらず、逆に土佐藩士達を愚弄する態度に出ます。フランス兵は土佐藩の隊旗を奪おうしたので、ここに至って堪忍袋の緒が切れ、土佐藩士は発砲しました。フランス兵は逃亡しようとしますが、撃たれたり海に落ちて溺死したりと、11人が死亡しました。
 
 二月十九日、フランス公使レオン・ロッシュは、在日各国大使と共に、犯人の処罰と謝罪、賠償金の支払いを求めた抗議文を明治政府に提出して、明治政府は全面的に主張を受け入れました。と言うか、受け入れざる得なかったとのです。当時は国内も平定していませんし、歴然とした国力の差の前では抵抗することは出来ません。土佐藩士達は堺警護の任務を忠実に果たし、発砲も隊長の命令で行ったのですから兵士としては当然ですが、まさに断腸の思いで六番隊隊長箕浦猪之吉、八番隊隊長西村左平次以下二十名が籤(くじ)で処刑者に決まりました。
 二月二十三日、堺の妙国寺土佐藩士の処刑が行われる事にり、フランス側も公使ロッシュ、艦長トゥアール以下将校達も立ち会いましたが、衝撃的なシーンを目撃することになります。
まず最初の処刑者、箕浦猪之吉が大音声で叫びました。

「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」 森鴎外 「堺事件」より

猪之吉は衣服をくつろげ、世話役の出した四方を引き寄せ短刀を逆手に取ると、左の脇腹へ深く突き立て三寸切り下げ、右へ引き廻して又三寸切り上げました。世に言う「十文字腹」です。続いて短刀を投げ出すと、腹に手を入れて臓腑を掴み出し(内臓を投げつけたと書いてある物もありますが、流石にそれは医学的に無理)、鬼神の形相でフランス人を睨みつけたところで、介錯人の馬場桃太郎が一太刀を首に当てます。馬場も臆したのか打ち損じると

「馬場君。どうした。静かに遣れ」

と猪之吉は叫び、三度目にようやく首を落としました。猪之吉行年二十五。西村左平次がそれに続き割腹。佐平次行年二十四。
その後次々と行われる「腹切り」を見ていたフランス人は嘔吐する者、気を失う者が続出して、十二人目の橋詰愛平が短刀に手を掛けたところで、見るに見かねたのかロッシュ(トゥアールという説有り)が外国局判事五代才助に処刑の中止を要請しました。処刑は中止となるのですが、橋詰は切腹を懇願します。どうしても許されないので、橋詰は舌を噛み切りますが治療されて一命を取りとめました。


 当時の外国人で無くとも現代の日本人でも、想像を絶する光景ですが、切腹は「武士の名誉ある死」として平安時代から続いてきました。新渡戸稲造は著書「武士道」の中で、腹部は霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰から、切腹の習慣が確立したと述べています。「腹を割って話す」「腹黒い奴」などの慣用句は頭蓋と同様に、腹部に魂が籠もっていると思われていたからでしょう。

 さて次回は武士が何故、切腹と云う行為を行うのか、少々調べましたので書きたいと思います。おぞましいと思われるかもしれませんが、切腹を理解しないと「武士」を理解することが出来ませんので重要です。 


続「言葉」で綴る 西郷隆盛


   「西郷隆盛像」 鹿児島市城山町



「三郎様は地五郎(じごろ)でごわす」

西郷隆盛島津久光に向かって言った「台詞」でが、「地五郎」とは「田舎者」といった意味です。
西郷は「安政の大獄」のとき、幕吏の目を欺く為に奄美大島に潜伏していましが、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺され、時勢が急変すると藩父久光の前に召し出されました。この時期、久光は順聖院(島津斉彬)の遺志を継いで、引兵上洛しようとしていたのですが、意見を聞かれた西郷がこのように答えたのです。斉彬と違い久光は官位も低く、諸侯の尊敬も薄いので同じ事をやろうとしても、うまく出来ませんといった意味が込められています。これが久光の勘気に触れて、その後紆余曲折あったのですが、徳之島に島流しになりました。
 大変有名な「台詞」なので、大河ドラマ篤姫」でもこのシーン(私は見ていないのですが)があったようですし、小説では司馬遼太郎海音寺潮五郎も取り上げていますが、私はちょっと見方が違います。いくら西郷が久光を憎んでいたとはいえ、一時の「快」の為に、直接こんな事を言うとは信じられません。久光の側近にふと言ってしまったことが、間接的に伝わったのが真実だと思います。西郷と久光は生涯折り合わなかったのですが、藩主や藩に対しての忠義を無くすことはありませんでした。確かに廃藩置県を実施して、藩の支配権を失わせましたが、政治的な問題と道徳的な問題は別にあります。西郷は維新後、勲功で正三位を叙するところでしたが、藩主忠義が従三位だったので、上位に就くことはできないと再三再四辞退して遂にそれを貫徹しました。


「児孫のために美田を買わず」

「南洲翁遺訓」にあるのですが、今や諺辞典に載るほど有名な言葉です。原文は漢詩になっていますので、全文を記載します。

幾か辛酸を歴て志始めて堅し  丈夫玉砕甎全を愧ず
一家の遺事人知るや否や  児孫のために美田を買わず

 西郷は明治新政府で参議となりましたが、他の者が美衣を纏い豪奢な邸宅に住み、馬車に乗って出仕するところ、西郷は粗末な服装で従者一人を連れテクテク歩いて出仕しました。
ある時宮中の会議が終わり、西郷が帰ろうとしたところ履き物が無く、仕方がないのでそのままハダシで出ていったのですが、門衛が疑って門を通してくれませんでした。そこへ岩倉具視が馬車で近づいて来たので、門衛は西郷を叱りつけて控えさせると、西郷は文句もいわず腰をかがめていました。岩倉がふと見ると西郷が門衛のうしろで、雨にぬれて立っているので、岩倉が訝って訳を聞き「この人は本当の西郷参議である」と門衛を戒め、馬車に乗せて立ち去りました。門衛は茫然自失として立ち竦んでいたそうです。


「南洲翁遺訓」にはまだまだ名言があります。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

この遺訓と対になってよく語られているのが下記です。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

これは江戸城無血開城の交渉に来た、山岡鉄舟を称して言ったようです。


「事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず」

「功ある人には禄を与え、徳ある人には地位を与えよ」


 そして最後に、私の好きな、西郷隆盛の生き方を現した言葉「敬天愛人」です。

「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」


 西郷は天を敬い、人を愛する清廉、誠実で仁愛の心を持ち、私欲は持たず、公の尽くすことを生涯を通して貫きました。美辞麗句を並べていても、行動がともなわないのでは説得力はありませんが、西郷の言葉と行動は「知行合一」に徹しています。「南洲翁遺訓」に残している「言葉」改めてを読み、人の「言葉」の力強さを身に染みて感じた次第です。


西郷隆盛 第一巻

西郷隆盛 第一巻

「言葉」で綴る 西郷隆盛


        西郷隆盛


 前回、坂本龍馬の事を書きましたが、今回は西郷隆盛にしようと思います。
表題に付けた「言葉」とは、西郷自身や周りの人が話した「台詞」とでも言えばいいのでしょうか、西郷の人と成りが顕れているものを探してみました。西郷の経歴や活躍を、改めて書いていく必要も無いと思いましたので、このようにしましたが、「台詞」といっても、古書にあった比較的信憑性の高そうな物もあれば、小説家の創作かもしれない物もあり、ごちゃ混ぜですがどうぞお許し下さい。

 前回私は、坂本龍馬の事があまり好きではないと書いたのですが、西郷隆盛は好きです。龍馬が好きではないのと同じで、理由を説明するのは難しいのですが、龍馬を「生理的」に好きではないと書いたので、西郷は「本能的」に好きとでもしておきます。
私の好きな作家、海音寺潮五郎氏は多くの史伝を書いていますが、人物評は大変客観的で、時には厳しくその人物を批評することもあります。多分それは、氏がその著書にも書いているように、幼少の頃から愛読していた司馬遷の「史記」、とりわけその中の「列伝」に大きな影響を受けているからかもしれません。
しかし、そんな海音寺潮五郎氏ですが、こと西郷隆盛の評価については、私が「客観的」に見ても大甘です。「非の打ち所が全くない人物」と言われてしまうと、確かにそれまでですが、鹿児島県の伊佐郡大口村出身で、確かご先祖は薩摩の郷士だったと記憶してますので、その事が影響していると思います。出身地の大口村(現在の大口市)は西南戦争の激戦地で、戦争を生き残った村の古老達に、幼い頃から西郷の話を聞かされたと著書にも書いておられました。


「私が西郷の伝記を書こうと思い立ったのは、私が西郷が好きだからです。理由を言い立てればいくらもありますが、詮ずるところは、好きだからというに尽きます。好きで好きでたまらないから、その好きであるところを、世間の人々に知ってもらいたいと思い立ったという次第です。」

海音寺潮五郎氏が、朝日新聞社刊「西郷隆盛」の第一巻あとがきに書かれていた文章です。なるほど結局人が人を好きになることに、理由をあれこれ付ける必要はないと分かりましたので、私が西郷を好きな理由も氏と全く同様な訳です。

 さて、それでも西郷隆盛が多くの人々に愛される理由を考えると、私自身が色々な書物から感じるのは、魅力と云う言葉では足らない、一種の人を引きつける「磁力」があるからのような気がします。


 西南戦争の頃、九州各県から薩摩軍の元へ、多くの士族隊が応援に来ていましたが、その中の中津隊に増田宗太郎という隊長がいました。戦争末期、和田峠の戦いに薩摩軍が敗れると、西郷ももはやこれまでと思ったのか、各士族隊の解隊を命じますが、増田は受け入れませんでした。中津隊の隊士が増田に一緒に帰郷するよう説得すると、増田はこんな「台詞」を言ったそうです。

「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」

記録の原文ですが、意訳すると「君たちは西郷に会ったことが無いから分からないのだ。西郷と親しくなったのは最近だが、この人に一度接してしまうと良い悪いの問題ではなく、生死を共にするしかなくなるだ」という意味です。増田の他にも中津隊の十数名が、城山陥落まで西郷と行動を共にして全員戦死しました。
 余談ですが、増田宗太郎は中津藩の士族出身で、福沢諭吉とは再従兄弟の間柄です。慶應義塾で洋学を学んだ後、明治七年、江藤新平佐賀の乱にも兵を率いて参加しようとしましたが、決起が遅く間に合わなかった経緯があります。

 増田宗太郎の事例は特別ですが、西南戦争であれだけ多くの士族が、西郷に付き従ったのは、他の士族の乱とは違い、西郷の人を引きつける「大磁石」的なものが要因だと私は考えています。と言うのも、西郷と士族達とは主従関係ではなく、封建社会でみると単なる上司と部下の関係に過ぎません。儒教的忠義の概念は常に武士の心の中にありますが、現実的には殿様が家来に知行を与え、生活を保護するので見返りに忠誠を誓うわけで、西郷は殿様ではありませんのでこれに当てはまりません。確かに明治新政府に対して、士族達が反感を持っていましたから、西郷を首領として決起したのが理由と反論される方もいるかと思いますが、私はどうしてもそれだけの理由で、あれだけの大部隊が従ったとは思えないのです。やはり西郷隆盛という人間に秘密がある気がしてなりませんので、もう少し探ってみようと思います。


 西郷は、誠実で礼儀正しく威厳があったと言われていますが、反面、よく冗談を言って人を笑わせる明るい性質も持ち合わせています。
「夜這(よべ)ごとある」
西南戦争も終盤、宮崎県の北端にある可愛岳で戦闘して追い詰められ、夜間密かに脱出しようと這い蹲って進軍している時に、西郷が漏らした言葉です。「まるで夜這いに行くみたいだ」と云った意味ですが、周りの隊士達は声を上げられず、笑いをかみ殺していたそうです。とても冗談を言えるような状況ではないのですが、隊士たちの極度の緊張を解こうして思わず出たのか、ある意味では西郷得意の「自虐ギャグ」的なものです。同じ様な「台詞」が他にもあります。
「勤王道楽のなれの果てで、こういう事になりも申した」
時代は随分と遡りますが、文久年間「寺田屋事件」以前、西郷が島津久光の怒りに触れて、大阪で謹慎している時に、心配をして訪ねてきた薩摩藩留守居・本田弥右衛門話に、呵々と笑いながら話したそうです。
「勤王道楽」とは、吉田松陰が聞いたら烈火の如く怒りそうですが、西郷は決して勤王精神を馬鹿にしているわけではありません。勤王の志は人に倍してある西郷ですが、思うように事が運ばない現状を嘆いて、「自虐的」に話しているわけです。私は鹿児島生まれではないのでよく分からないのですが、これが薩摩人独特の明るさとユーモアセンスなのでしょうか。しかし他の薩摩人からこのような「台詞」は、あまり聞いたことがありません。
この西郷の「台詞」を聞くと、確かに「愛すべきキャラクター」ではありますが、これではまだまだ生き死にを共にするほど、敬愛するとは思えません。

 謎は深いですし、長くもなってしまったので、今回はここまでにして、次回も引き続き「言葉」を探して、西郷隆盛の探求をしたいと思います。

坂本龍馬奇譚「いろは丸事件」  後編


    岩崎弥太郎


 この「いろは丸事件」の少し前、慶応3年(1867年)頃から、坂本龍馬土佐藩の執政後藤象二郎と親しくなっていました。後藤は本来、暗殺された土佐藩参政吉田東洋に近い人物ですから、武市半平太によって結成された、土佐勤王党の出身である龍馬や海援隊亀山社中)の主立ったメンバーから見れば、いわば敵のような存在です。しかし後藤が藩の商売を任され、土佐商会主任、長崎留守居役になると、龍馬に土佐藩の商売の協力を頼み、見返りでしょうか、龍馬の脱藩の罪が赦されるように上申して、海援隊土佐藩の外郭団体にしました。
 龍馬は藩という枠を越えて、商売で世界に打って出ようとしていたわけで、その為に維新革命の手助けもしたのですが、前回書いたように当時の海援隊の台所事情は困窮していたので、背に腹は変えられず古巣におもねったと、私は思っています。この頃、後藤の右腕となっていたのが、土佐藩岩崎弥太郎です。
後藤象二郎岩崎弥太郎の二人は、「いろは丸事件」に重要な関わりを持っているので、憶えておいてください。


 長崎に戻った龍馬、海援隊紀州藩明光丸の乗員達は、改めて協議を始めましたが、龍馬は態度を一変させて言います。龍馬の言い分は、衝突事件の非は総て紀州藩側にあり、船の代金四万四千両、積み荷はミニエー銃四百挺で八千両、その他米や砂糖も積んでいたので、積み荷の代金は合計で約四万両、締めて約八万五千両を弁済しろと要求したのです。そもそも事故の原因も、紀州藩名光丸の船体の傷が右舷にあったことや、いろは丸が舷灯を点けていなかった疑いなど、海援隊側の操舵ミスの可能性の方が高かったのです。また、百歩譲ったとしても、双方が動いている条件で衝突したのですから、片方の過失が全くないという論は、現代の交通事故の事例に照らし合わせてみても、不合理であることは確かでしょう。龍馬は「万国公法」を持ち出し、「日本ではまだ本格的な海難審判は出来ない」と屁理屈をつけて、長崎奉行の調停も無視して、挙げ句には紀州藩を恫喝して「皆殺しにしてやる」と息巻きました。

「船を沈めたその償いに、金を取らずに国をとる」

と龍馬達は戯歌を作り、花街で芸者に流行らせ宣伝して、一戦交える覚悟を示したというのですから、柄が悪いと言うほかありません。一方の紀州藩側も、ここまでやられては引っ込みがつかず、斬ってやろうと龍馬の宿屋に押し掛けますが、たまたま外出中で難を逃れたこともありました。


 さて、ここで一旦止めて検証しますが、実は龍馬の要求する賠償金はとんだ「ぼったくり」であることが解りました。今年四月十二日の産経新聞の記事に「いろは丸事件」の検証が載っていましたが、積み荷にミニエー銃四百挺は無かったという結論です。財団法人京都市埋蔵文化財研究所と京都の水中考古学研究所は、沈没した「いろは丸」の水中調査を昭和六十三年から行ってきましたが、平成十七年の第四次調査で海中の遺物をほぼ全て収集しました。しかしその中には、ミニエー銃はおろか一欠片の部品さえ見つかりません。米や砂糖は百四十年も経てば、海中には無いでしょうが、鉄製の銃が完全に消えてしまうことはありえませんから間違いないでしょう。
 これは私の推測ですが、いろは丸が何も積んでいなかったとは考えられませんので、米や砂糖は積んでいたかもしれません。ただミニエー銃の八千両は、この事故の賠償金に上乗せして、龍馬が騙し取ろうとしたに違いありません。そういえば海援隊が以前にやっと買った汽船を、不運な事故で沈没させてしまった事は前に書きましたが、その船の値段が確か六千三百ドル。両に換金してもほぼ同額です。私は「災い転じて福となす」で、龍馬は多目に取った賠償金で、また自前の船を購入しようと目論んだのではないかと疑っています。

「どうせ徳川御三家の金じゃ、多目にふんだくっても構わんだろう」

と龍馬は思ったのでしょうが、これでは「万国公法」も「国際法」もまったく関係ないわけです。
しかし、この程度ではただの「こそ泥」ですが、影に「大泥棒」も潜んでいたようです。


 紀州藩は、海援隊とは話がつかないと考え、後ろ盾になっている土佐藩後藤象二郎紀州藩勘定奉行茂田一次郎が直談判しますが、後藤との話し合いでも埒が明かず、茂田は「戦で決着する」と怒って帰ってしまいました。流石に慌てた後藤は、薩摩の五代才助に仲介させることにして、五代を龍馬の元に行かせて「七万両に負けてやれ」と説得します。返す刀で五代は紀州藩にも出向いて、賠償金を値引きすることを伝えて、紀州藩を納得させました。


 また止めますが、あれ、これはどう考えてもおかしいです。紀州藩側は事故の過失責任があると思っていないのに、八万五千両を七万両に賠償金を値引きしたくらいで、戦をするとまで息巻いていた怒りが、消えてしまうとは考えられません。なにか策謀があると思いませんか。
ここでまたまた私の推理ですが、後藤は五代を使いにして、こんな風に言わせたのではないでしょうか。

「今回の件でこれ以上大きな騒ぎにしては、貴殿や拙者にも責任が及ぶこと必定でござる。時節風雲急を告げている折、尊藩と弊藩が揉め事を起こしては、御公儀の覚えも悪かろうと存ず。そこでとりあえず、坂本に金を払って得心させ、後は拙者が理由を付けて取り戻し、貴殿にお返ししたらいかがでござろう。拙者も藩政を任されている身、約束を違えることはいたしませんぞ」

と、小説風に書くとこんな感じです。どうですか、創作ですがあっても不自然ではないですよね。もっと凝った話にするなら、茂田にキックバックを持ち掛けたでもいいですね。
しかしこれだけでは、後藤が騒ぎが起こる事を恐れて、その場しのぎの言い逃れをしたに過ぎませんが、この策謀はもっと奥が深いのです。


 いろは丸の賠償金七万両は、一旦土佐藩が預かる形になり、後に龍馬に支払われる約束でした。しかし僅か八日後の慶応三年十一月十五日、龍馬は京都近江屋の二階で刺客に殺されてしまいました。龍馬は、この賠償金を受け取る目的もあり、在京していたのですから何か臭いませんか。その後土佐藩から大洲藩に、「いろは丸」の弁償金や、商品が大洲藩の物ならその代金も、一切支払われていないのです。これは明治四年に大洲藩一揆が起こった時に、ある商人が「いろは丸の代金を支払わない、恨みをはらす」と言っていた事が、大洲史談会「温古」に掲載されていたので事実と思われます。後はご存知の通り、戊辰戦争あり、廃藩置県ありで、藩も何も無くなって、金の貸し借りなどうやむやです。

 私は後藤象二郎岩崎弥太郎、ひょっとしたら五代才助も一味で、七万両は山分けして懐に入れてしまったのではないかと睨んでいます。そう考えると龍馬暗殺も、実行犯「京都見廻組佐々木只三郎らに龍馬の所在をリークしたのは、後藤と岩崎である可能性がありそうです。暗殺などの陰謀は、誰が得をしたかを考えると黒幕が見えてきます。龍馬暗殺の黒幕は、「京都見廻組単独犯行説」「薩摩藩黒幕説」「大洲藩報復説」「紀州藩報復説」など色々ありますが、昔も今も金が絡むと人が死ぬことが多いので、私の説も有力だと思いますよ。


 さて、そろそろまとめようと思いますが、坂本龍馬も事故に便乗して、少しくすねようとしたのかも知れませんが、もっと悪い奴が横から入って、根こそぎ持っていってしまった図です。ご存知の通りその後、一味と睨んだ岩崎弥太郎三菱財閥を興し、巨万の富を手に入れるのですが、起業の原資は意外とこの金であったかもしれません。
 岩崎弥太郎の事業で、最も成功したのは海運業ですから、龍馬は金だけでなく事業まで横取りされてしまったわけです。もし真実が私の考えてる通りだとすれば、龍馬を好意的ではないと、再三言った私も流石に同情しますね。

坂本龍馬奇譚「いろは丸事件」  前編


      坂本龍馬


 幕末の有名人で最も人気があるのは、坂本龍馬(竜馬と書くのもありますね)かもしれません。2010年のNHK大河ドラマの主役も、龍馬のようですから、この論でいけば相当に視聴率も良いことでしょう。しかし水を差すようですが、私はそれ程好きではないのです。以前、司馬遼太郎作品を全作読破と偉そうに書きましたが、実は代表作と言われている「竜馬がゆく」は読んでいません。司馬作品では「竜馬がゆく」だけは、読んだことがあるという友人もいたのですが、話題に乗れず困ったことがありました。
「何故嫌いなのか?」と聞かれても、理由は無いですし、分析をする気もしませんが、「生理的」理由としか言いようがありません。
 そこで今回は坂本龍馬と、その亀山社中海援隊)が関わった「いろは丸事件」を研究してみます。当然ですが個人的理由もあるので、龍馬を好意的には書かないかもしれませんので、龍馬ファンには事前にことわっておきます。


 「いろは丸事件」は、「俄(にわか)」龍馬ファンでは知らない人もいるかもしれないので、事の起こりより簡単に解説します。
 文久年間、薩摩藩は薩英戦争に敗れた後、蒸気船や外国製の武器を買い込んでいましたが、仕掛けたのは薩摩藩士五代才助(友厚)です。五代は、維新後に実業家として成功するのですが、当時から武士というより商人としての才能がある人です。この五代は龍馬のスポンサーとなって、亀山社中設立の資金も用立てて、その見返りで龍馬も薩摩藩のビジネスの手伝いをしていました。当時は情報の流通が無く、蒸気船や外国製の銃などの価格が分かりませんから、仕入れた商品を他藩に売れば、相当な利益が上げられたので、龍馬も仲介をして薩摩が仕入れた商品を他藩に売ったりしていたわけです。
 亀山社中は五代の援助で、長崎のグラバー社から洋式帆船を六千三百ドルで購入します。龍馬はブローカーのような仕事をしていた訳ですが、遂に自前の船を持って、本格的に海運ビジネスを始めようとしていたのです。しかし運悪く、この船は曳航中に高波で転覆沈没してしまいました。龍馬は再度、五代に借金を申し入れますが、今度は貸してくれません。龍馬は船が無くては商売が出来ないので、次は長州藩に蒸気船を貸して貰いたいと頼むのですが、こちらも冷たい返事です。薩摩も長州も薄情なもので、龍馬の斡旋があって同盟が出来たのですが、出来てしまえば龍馬も亀山社中も必要なかったのですね。

 やはり藩という後ろ盾がない龍馬ですから、この時の社中の財政状態は相当に逼迫していたようです。そんな矢先に、五代が薩摩藩が持っている蒸気船を、四万四、五千両でどこかに売ってくれないかと龍馬に持ち掛けました。金に困っていましたので、渡りに船と、龍馬は丁度、武器の購入で長崎に来ていた、伊予大洲藩の国島六左衛門に

「武器など買ってる場合じゃないぜよ。これからは船で貿易をする時代じゃ。貴藩の為にもなる話ぜよ。」

と、多分こんな感じで巧みに勧め、購入させました。しかも大洲藩が買ったこの船を、海援隊亀山社中を改め)が一航海十五日間につき五百両で借用する約束も取り付けました。そもそも買ったのはいいのですが、お粗末な話で、大洲藩には汽船を動かせる者がいなかったのですから、海援隊に貸すしか無かったのでしょう。国島六左衛門はその後、藩に許可無く船を買った責任を取らされて、腹を切るのですから、後味も悪くなりましたが、龍馬にとってみれば、販売の口銭も貰っているでしょうし、商売の船も借りられて一石二鳥の話になったわけです。
この蒸気船が、長さ三十間、幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン、鉄製スクリューを持った「いろは丸」です。


 慶応三年(1867年)四月十九日、いろは丸は、海援隊の初仕事の商品運搬目的で、龍馬と海援隊隊士が乗り込み長崎を出港しました。ところが長崎を出港したいろは丸に、とんだ災難が降りかかります。馬関海峡を通り瀬戸内海に入った、二十三日の午後十一時頃、備中沖六島辺りを航行中に、逆に長崎方面に向けて航行していた、紀州藩の軍艦明光丸八百八十トンと衝突してしまいました。原因は、当時霧が濃く視界が悪かったとも、いろは丸が舷灯を点灯していなかったとも云われていますが、はっきりとは分かりません。兎に角、船の大きさが隔絶していますので、いろは丸は一溜まりも無く、近くの備後鞆港に明光丸が曳航している最中に沈没してしまいました。
この時に龍馬が、いろは丸の乗員の救出に尽力したとか、長崎行きを急ぐ明光丸側を「万国公法」を持ち出し、ごねて鞆港に立ち寄らせたなど、活躍を書いてある小説もありますが、創作臭い話は割愛します。

 鞆港へ上がって、龍馬と紀州側と責任問題、賠償問題が協議されるのですが、紀州は力が弱ったとはいえ、徳川御三家紀州和歌山藩五十五万石の大藩で、一方の龍馬の海援隊は、大洲藩の船に乗っているとはいえ、浪人集団に過ぎませんので格が違います。しかし龍馬は持ち前の交渉力で一歩も引かず、結局紀州側も長崎奉行に裁定して貰おうと考え、協議の場所を長崎に移すことになりました。
その時龍馬は一転して和やかに、いろは丸に積んでいた商品が沈んでしまい困っているので、商品代金一万両(一説には千両)を貸して欲しいと、紀州側に申し入れました。よほど龍馬の交渉が巧みだったのか、或いは紀州側も多少の非を感じて同情をしていたのか、「長崎へ行ってから善処しよう」と、そんなニュアンスで言ってしまったようです。


 さて、長崎に移動した双方は、再度協議にはいるわけですが、龍馬は突然態度を変えて、とんでもないことを言い出しました。
(次回に続く)

二十一回猛士吉田松陰 その四

 吉田松陰は野山獄に入牢中から、有名な尊王僧、周防の僧月性や安芸の僧黙霖と文通をしています。

 月性は、西郷隆盛と入水自殺をした、僧月照とよく混同するのですが別人です。僧月性は熱心に海防の急を説いていた尊王攘夷の僧で、「人間到る処青山有り」で始まる、有名な漢詩の作者で知られています。
 僧黙霖は「国体論を第一にし、攘夷の有無に拘らず尊王を叫ぶべきである」と主張していた熱烈な尊王僧で、維新後は還俗して宇都宮真名介と名乗り、湊川神社権宮司・男山八幡宮禰宜になっています。晩年は呉に住んでいたのですが、時の総理大臣伊藤博文が黙霖を尋ねて来て、「先生、先生」と呼ぶので、周りの人々が驚いたという逸話があります。

 この二人の僧の思想は、「もはや幕府は無用の長物である」という倒幕論です。出家している二人にとっては、武士のような封建社会の枠組みに入っていないので、尊王論を論理的に突き詰めていって、その結論に達していたのです。しかしこの頃の松陰は、倒幕論までには達していません。当時の松陰は幕府が日本の政治の中心であることを認めていますし、諸侯が心を一つにして皇室に忠誠を尽くし、外夷の脅威を退けるべきであると説いていました。松陰に限らずこの当時の志士は、まだこのような穏やかな思想ですが、倒幕思想に大きく転換するのは、安政五年の「安政の大獄」からです。
 松陰が幕府に対して憤ったのは、安政五年正月に、無勅許で日米和親条約を結ぼうとした事が原因でした。しかも朝廷には事後報告で、その報告も宿次奉書で送るという侮辱的な態度です。松陰は藩主毛利敬親に、朝廷の勅諚を以て条約反対の意見書を出し、天下の世論として幕府に迫るよう進言しました。意見書は匿名でしたが、敬親は直ぐに松陰のものと見抜きこう言いました。

「寅次郎(松陰)は気性の烈しい男だから、幽囚の境遇で言いたいことも言えなければ、何をするかわからん。何でも書いてよこすように言え」

敬親は幼少の頃、松陰に山鹿流兵学を学び、松陰に深い愛情を持っていたので、気遣う様子が伺えます。しかしまだ幕府の権力は絶大で、敬親の訴えではどうにもなりませんし、藩内の意見を統一させるほどの独裁権も持っていませんでした。暗鬱となる松陰はこの頃、梁川星巌に対策一道、愚論、続愚論の三編の文章を送り、幕府のとるべき態度、朝廷のとるべき態度を述べています。また藩の要人にも、度々意見書を上申して、運動を起こすように訴えますが、幕府の専横は留まるところがありません。
 

 安政五年(1859年)、大老井伊直弼は、遂に安政の大獄を始めます。越前福井藩橋本左内、、儒者頼三樹三郎儒者池内大学、水戸藩士鵜飼吉左衛門・幸吉親子などが捕らえられ、土佐藩山内容堂宇和島藩伊達宗城らが隠居謹慎を命ぜられます。長州藩も松陰が危険人物であるので阻隔し始めますが、松陰の情熱は冷めることがありません。気狂いのようにいきり立ち、公家大原重徳を長州に招き、勤王の兵を挙げようと画策し、それがものになららないと、同志と共に老中間部詮勝の暗殺までも計画しています。長州藩周布政之助は、大獄の火の粉が藩に降りかかることを恐れ、敬親に請うて松陰を再度野山獄に入牢させました。
 囚人となっても松陰の運動は止みません。この頃になると友人や門弟も、松陰の過激な主張を諌めようとするのですが、江戸にいる高杉晋作久坂玄瑞の、勤王責幕運動(まだ倒幕までは達していません)についての諫言状に対しては、松陰はこう言って批判しています。

「在江戸の諸友、久坂、高杉などは私と料簡が違う。私は忠義をするつもりなのに、彼らは功業を立てるつもりでいる」

ここに松陰の特性があります。正義の行いをする事に、何の躊躇もしない純粋さは、他の者には到底理解できないのです。いや、理解はできても同じような行動をとることは、理性が妨げて出来なかったのかもしれません。松陰は余りに実直に行動をするので、革命家としては何もうまくいきませんでした。幕府を用心することもなしに、手紙は各地の志士に出し放題で、幕府の暴状を訴え続けています。長州の片田舎の囚人の身で、政権転覆を正攻法で果たすことなど不可能ですが、松陰は影に潜んで陰謀を企むようなことはしません。老中間部暗殺計画も、同志と堂々正面から斬り込むつもりだったのでしょう。
この再度の野山獄収監中でも、司獄福川犀之進、弟高橋貫之助、同じ囚人安富惣輔らと春秋佐氏伝の会読をしているのですから、勉強熱心もここに至れりと驚きます。


 安政六年五月十四日、幕府の命令で松陰が江戸に送られることになりました。福川犀之進は独断で、名残を惜しませるため松陰を一夜家に帰し、母滝子は風呂を沸かして、今生の別れとも知らずに、松陰の背中を流したそうです。
六月二十五日に江戸に着き、寺社奉行勘定奉行町奉行大目付立会いで取調を受けますが、松陰の容疑は二ヶ条あります。

一つ、梅田雲浜長門に下向した時、何を密議したか。
二つ、京都御所内の落し文があり、その方の筆跡に似ているが覚えがあるか。

松陰の答えは、一つ目は禅学などを語り時事談などはしていない、二つ目は全く身に覚えがないことであると答えます。ここで口をつぐんでいれば、遠島や重追放程度の刑で済んでいたかもしれませんが、松陰は幕府の蒙を開く決意で来ていますので、ペリー来航以来のこと、日本の採るべき外交政策など意見を述べ、さらに公家大原重徳を招聘して挙兵しようとしたこと、間部要諌策(暗殺とは言っていない)のことまで陳述しました。松陰は人を疑うことを知らない人間ですから、奉行達にもこの国の憂いを訴えれば、分かってもらえると思っていたのでしょうか。或いは死を賭して、幕府が改心することを訴えたかったのかもしれません。このときに松陰の死刑は免れぬものとなりました。

 安政六年十月二十七日、伝馬町の獄に入れられていた松陰に、死刑の判決が下され小塚ッ原の刑場で斬首されました。
歳はわずか三十。刑場の態度も従容として、見事であったといいます。


 松陰は取調べの後、死刑は免れぬと分かっていたのでしょうが、伝馬町の牢で同囚の元福島藩主沼崎吉五郎に、孔子孟子を教えています。当然書物など無いので、暗記しているところを教えたのです。最期の時を迎えるまで教えていた松陰には、もはや言葉も見つかりません、胸が熱くなる話です。獄を出る時に、同囚の同志らに訣別の漢詩と、書き上がったばかりの遺作「留魂録」を残しました。
その漢詩と辞世を最後に書いておきます。


 「吾今爲國死 死不背君親 悠悠天地事 鑑照在明神」 
  吾今国の為に死す 死して君親に背かず 
  悠々たる天地の事 鑑照らす 明神に在り   


 「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂



吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

二十一回猛士吉田松陰 その参

 松下村塾の門弟で優秀だったのが、高杉晋作久坂玄瑞、吉田栄太郎(稔麿)、入江杉蔵(九一)の四人で、「松門四天王」と呼ばれていました。
松陰はそれぞれの人物評を残しています。


高杉晋作の事
「性質は傲慢で、人の言うことに耳を傾けないように見えるが、取るべきところは取る人物である。必ず大成長する。私が事を成すときは、必ず高杉に相談するだろう」
久坂玄瑞の事
「久坂は潔烈な志操と縦横の才を兼備している。清潔、激烈であるが、縦横無碍の才があり、しかも人に愛せられるところがある」
吉田栄太郎
「栄太郎の識見は高杉に似ている。いささか才があるので気魄が十分に伸びない。人間は気魄が衰えれば識見も昏んで来るので、気をつけよ」
入江杉蔵の事
「杉蔵は卑賤な身分ながら、天下のことを憂える志は奇特である。またその意見が、自分と合致していることは喜びである。その憂えが痛切で策が要をつかんでいるところは、自分も及ばない点である」


松陰は門下生の中でも、この秀才達を多いに買っていて、四人も松陰の思想を受け継ぎ、尊皇攘夷運動に挺身しましたが、高杉は大政奉還を見ることなく結核で病死、久坂、入江は「蛤御門の変」で敗れ自刃、吉田は「池田屋事件」で横死しました。

 
 松下村塾は、特別の入塾の規定もなく、授業料の定めもありませんでした。寄宿生もいましたので、いくらかの食事代や油代などは出していたかもしれませんが、貧しい家の子息もいましたので、松陰の家の手伝いぐらいで金を払えない者もいたのでしょう。松陰の母・滝子は塾生の世話をよく見て、時には食事を食べさせたり、年嵩の者には酒なども振る舞ったそうです。松陰は勉強をする事と教える事を、天命と思っていたのでしょうから、家族も十分理解して助けています。


 松陰は秀才ばかりを贔屓にしていたわけではありません。卑賤の者や能力の劣る者でも、分け隔て無く指導しています。
市之進という十四の若者がいましたが、父に死別して母一人に育てられたので、わがままで我が強く、家族のもてあましものになっていました。ある日市之進が、習字の稽古をしている時に、松陰が庭の掃除を命じると、まだ残りがあるのでと言って従いません。松陰も二度、三度と促しましたが市之進は従わないので、松陰は突然立ち上がり、市之進の書道道具を庭に投げ出してしまいました。仕方なく市之進は庭の掃除をしますが、終わると松陰は呼び寄せ、何故私の楯突くのかと問いました。市之進は謝りますが松陰は

「私に楯突くことが出来るのなら、天下の誰にでも楯突かねばならない。もしお前にそれが出来れば褒めてやるが、出来ぬなら赦さんぞ」

市之進は項垂れています。松陰は一転、優しく続けました。

「お前は賢い子で、私と一緒に勉強するのに足る者だ。しかし聞けば母に不孝を行い、他の行状もよくない。そんな事で天下の人に楯突くことなど出来まい。志を立てて艱苦にも負けずに学問に励み、立派な人間となって信じる事を断じて行い、いかなることにも挫けず貫くのだ。そうすれば天下のいかなる者にも、楯突くことが出来るだろう。これから三十日間、今の言葉を実行せよ」(丁巳幽室文稿)
 
 松陰は負けず嫌いの市之進の性格を見抜き、最も理解され易い言葉で教えます。塾生各々の性格に合わせて指導をしているので、通り一辺倒な指導はありませんでした。


 「吉田松陰全集」に納められている「丁巳幽室文稿」は、松陰の自主性を重んじる教育方針や、実際の教育方法が記録されています。 その中に「煙管を折るの記」という面白い話がありました。

 安政四年九月三日の夜、松陰と富永有隣が松本村の武士の風儀が悪いと論じ、増野徳民、吉田栄太郎、市之進と溝三郎が同席していました。夜が更けた頃、話は塾生の岸田左門のことになります。岸田はまだ十四の少年ですが、煙草を吸うので、松陰は岸田の行末を心配していました。聞いていた栄太郎はいきなり「今日から私は煙草をやめる」と言って煙管を折ると、他の三人も続いて煙管を折ります。見ていた富永も「しからば私も」と煙管を折りました。松陰は、一時の興奮で決めてしまっていいのかと問うと、

「私共は岸田の為に、煙草をやめるのではありません。松本村の士風を立直す手始めにやるのです。先生はそれでも疑われるのですか」

と三人が答え、松陰も悪かったと詫び

「そなたたちの強い覚悟が分かった。この村の士風も立派になって私の憂いも消えるであろう」

と言いました。
翌日、松陰は岸田に昨夜の話を文章にして渡すと、岸田は涙を流して禁煙を誓い、喫煙道具一式を親許に送り返したそうです。後日、この話を聞いた高杉晋作

「私は十六から煙草を吸っているのですが、去年、路で煙管を落としてしまいました。これを機会に煙草をやめましたが、小事とはいえなかなか難しいことでした。皆の禁煙の苦労はよくわかります。」

と言いました。松陰はこのことを、次のように書き記しています。


「春風行年十九、鋭意激昂、学問最も勤む。其の前途、余固より料り易からざるなり。因って併せて其の事を書し、以て諸君に示す。諸君其れ遼豕の笑ひとなるなかれ」(丁巳幽室文稿)


春風とは高杉のことです。文章の雰囲気が伝わるように、原文で載せましたが、内容はお解りになると思います。文末の方は「煙草をやめるぐらいと笑ってはいけない。立派なことなんだぞ」といった意味です。

 松陰は小事であっても、有言実行することが大事であると教えています。これは以前に書いた松陰の教育方針、陽明学の「知行合一」の考えにも沿ったことなのでしょう。また松下村塾の塾生同士の連帯感と、凛乎たる求道の気風が表れている逸話だと思います。


 「知行合一」は小事であっても、大切なことであると松陰は説きますが、逆にどんな困難な大事であっても、必ず成さなければいけないと云うことで、陽明学思想の根本原理ともいえます。このことを理解すれば、松陰が尊皇攘夷思想から派生して、倒幕の思想を持つようになった時に、その行動は全て必然であったことがわかります。
 
 今回も長くなってしまいましたので、続きは次回にして、この記をまとめたいと思います。次回もよろしく御願いします。



吉田松陰名語録―人間を磨く百三十の名言

吉田松陰名語録―人間を磨く百三十の名言