福島左衛門大夫正則


「福島左衛門大夫正則」 東京国立博物館所蔵品



「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲み取るほどに飲むならば これぞまことの黒田武士」

 もう忘年会の時期ですが、年輩の方ならよく御存知の、宴会芸の定番「黒田節」の一節です。この歌は福岡藩黒田家の武将母里太兵衛が、酒の飲み競べに勝って、名槍「日本号」を手に入れた時に歌ったことで有名ですが、その飲み相手が、「賤ヶ岳七本槍」の福島左衛門大夫正則だったことは意外と知られていません。
正則は酒飲み友達の太兵衛に「わしに飲み勝ったらこの槍をやろう」と、つい弾みで自慢の「日本号」を賭けたのですが、正則が負けて酔い潰れた隙に、太兵衛はこの歌を吟じて、まんまとこの槍を持って帰ってしまいました。後悔した正則は、何度も返してくれるように頼みますが、「武士の約束」を盾に返してもらえませんでした。

 正則の酒に纏わる逸話は、枚挙にいとまがないのですが、もう一つ紹介します。
正則の酒飲み友達に、堀尾忠氏の老臣で松田左近という者がいました。忠氏が伏見に登城したときに、松田左近を今回召し連れてきたかと、正則が尋ねると、左近は病で療養中だと聞かされます。正則は退出すると、直ちに単騎で馬をとばして、大阪の左近の旅宿に見舞いに行きました。恐縮する左近に、正則が病の具合を尋ねると、病ではなく足を怪我しただけと答えます。正則は安心して、怪我なら酒は飲めるかと尋ねると、左近は飲めますと答えます。それでは飲もうということになり、左近は、小姓を呼び寄せ腰より銭を出し

「御前へ一杯、我等一杯、また御前へ一杯・・・」

と杯を数えて酒を買いに行かせようとすると、正則は扇を使って左近の手を押さえ

「怪我とはいえ、それほど飲んでは身体にさわる。今宵は椀に一杯ずつも飲めばちょうど良き程でござろう」

と言って、二椀分の酒を買ってこさせ、それをちびちびと飲みながら、一晩語り明かしたそうです。
 正則は酒に関する、余り評判の良くない話もあるのですが、他家の家来と身分を越えて懇意にしている、この二つの話を読む限りでは、ほのぼのとした人柄の良さも偲ばれます。


 福島正則は幼名市松といい、尾張の桶屋福島市兵衛正信が父、豊臣秀吉の父木下弥右衛門の妹を母とし、永禄四年(1561年)に生まれたと云う説が一般的ですが、定かではありません。秀吉もそうですが、この辺の人物の出自は、確かではないものが多いのです。しかし、この説に乗っていけば、出世頭の従兄弟秀吉を頼って、仕えたことになり辻褄が合います。市松が十四歳のとき、足軽某と喧嘩をして包丁で刺し殺し、
「なんだ、人を殺すなんてことは、武士しか出来ないと思ったが、大したことはない」
と思い武士になる決心をしたといいますから、時代が違うとはいえ乱暴な話です。

 天正十年(1582年)、正則は山崎の合戦で手柄を立てて、千石の知行を貰い、翌年の賤ヶ岳の戦いでの武功で、五千石を加増され、「賤ヶ岳七本槍」の名誉を得ました。七本槍の他の者が、三千石程度の加増だったのに対して、正則が五千石だったので、この辺が、秀吉の血縁者であったと思われている所以です。この戦いでは、勝家軍の剛勇の士拝郷五左衛門家嘉の首級を上げる手柄でした。翌天正十二年、二十三歳で従五位下左衛門尉に任官し、天正十五年には伊予国今治十一万石の大名になり、国分城を居城としました。
正則はこの後、肥後の宇土一揆平定、小田原城攻めや文禄・慶長の役で活躍し、文禄四年(1595年)には、生まれ故郷の尾張清洲二十四万石の城主になります。人を殺して、武士になると言って飛び出した桶屋の倅が、二十年後に大名になって帰ってきたのですから、親族も地元の者も大変驚いたことでしょう。

 慶長三年(1598年)八月十八日、豊臣秀吉大阪城崩御し、翌年閏三月には五大老の重鎮前田利家も亡くなると、天下の雲行きは俄に怪しくなってきました。慶長五年九月十五日、天下取りの野望を持つ徳川家康と、秀吉遺児を担いだ石田三成が天下の兵を二分して、関ヶ原の地で決戦を行います。福島正則は、文治派の三成と犬猿の仲ですから、家康の東軍を味方し、六千の兵で最前線に構えると、西軍主力の宇喜多秀家一万七千を相手に大激戦を演じます。戦いは小早川秀秋の兵一万五千が東軍に寝返り、西軍は敗退し、役後に正則は功績で、一躍安芸備後四十九万八千二百石の大大名にのし上がりました。


 「賤ヶ岳七本槍」の中で、一番出世をした福島正則でしたが、没落するのも最速でした。
元和二年(1616年)四月十七日、徳川家康駿府城で死去しますが、死の床の中で
「福島の家は、なんとしても潰さねばならない」
と言い残していました。大阪城が落城し、豊臣秀頼も死んだ今となっては、豊臣恩顧の大名の中で正則が一番の邪魔者になっていたのです。元和五年、正則は台風の水害で被害を受けた広島城を、武家諸法度に反して無断で修理をした罪を幕府から問われます。正則は事前に広島城改修の届けを幕府に出していたのですが、なかなか受理されませんでした。痺れを切らして幕府の重臣本多正純に、口頭で許可を得たのですが、これが反故となってしまいます。全て正則を陥れる策略でしたが、巨大な力を持った幕府に抵抗する術はなく、正則は諒として受け入れ、安芸・備後が没収、信濃国川中島郡中高井郡高井野、越後国魚沼郡、四万五千石に減封されました。元和六年、嫡男忠勝が早世したため、二万五千石を幕府に返上、寛永元年(1624年)、蟄居していた信濃高井郡高井野村で死去しました。享年六十四。嗣子がなくなると、福島家は外様大名改易の第一号となってしまい、おとなしく従った事で、その後立て続けに起こった外様大名改易に、大きな影響を及ぼしました。


正則が減封となって川中島へ移るとき、
「戦国の世では弓は重宝されるが、太平の世では川中島の土蔵に入れられてしまう」
と自虐的に語ったと伝えられています。
歴史は何度でも繰り返されます。劉邦漢帝国樹立に貢献した、三傑の一人韓信が残した言葉、
「狡兎死して良狗煮られる、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ」
と全く同じことを、福島正則は言ったのです。
正則は病死と幕府に届けられましたが、最近の研究では、悲憤して切腹したとの説が有力です。「賤ヶ岳七本槍」の中で正則は、豊臣秀吉に最も忠誠を尽くしていたのですが、「関ヶ原の役」で東軍に味方した事に因って、結果的には豊臣家を亡ぼす徳川家康の走狗とされてしまいました。

 一体、福島正則川中島で飲んだ酒は、どのような味だったのでしょうか。
 

平野遠江守長泰


 大和田原本藩初代藩主  平野長裕


 「賤ヶ岳七本槍」最初の一人は、平野遠江守長泰です。のっけから、資料が乏しく難しい題材に挑戦しますが、後に回しても楽になるわけではないので、一番目にしました。困難を後回しにしないのは、私のモットーですから。


 平野長泰の先祖は、諸説あるのですが、北条時政の流れの横井氏である説が有力です。時政から十四代目の横井宗長が、姉婿平野主水正業忠の尾張国平野村を所領して、平野姓を称したのが始まりです。業忠から数代後の、平野賢長入道万久は尾張国津島に住んでいましたが、織田信長に所領を奪われ諸国を流亡し、再び津島に戻り、公家の舟橋(清原)宣賢の子長治を養子にして、平野家を継がせました。長治は信長、秀吉に仕えていましたが、その子権平が後の平野長泰です。
 賤ヶ岳の戦いの時、権平長泰は弟長重、従兄弟の石河兵助と参戦しました。長泰は当時から、織田家中で剛勇を知られていましたが、身分は低く、足軽に毛が生えた程度であったと思います。賤ヶ岳の戦闘で長泰は、最初に柴田勝家軍の将佐久間政頼に槍を合わせますが仕留められず、尚も敗走する勝家軍を追走しました。すると敵軍の中に、信長に仕えていた頃から旧知の、小原新七を見つけます。小原は勝家軍の旗奉行をしていましたので、良き敵に巡り会えたと槍を合わせ、長泰が優勢に戦っていましたが、敵軍の中から松村友十郎と云う者が、名乗りを上げて横槍を入れてきました。長泰は怯まず、二人を相手に組み付いて、崖から転げ落ちると、小原新七の胸を突いて討取り、松村友十郎も肩を突いて倒しました。二人の首級を上げた長泰は、秀吉から

「秀吉眼前に於て、一番槍を合わせ、其の働き比類無く候条」

という感状と三千石の知行を貰い、七本槍の一人に加えられました。

平野長泰は、翌年四月の小牧長久手の戦いでも武功を上げ、文禄四年(1595年)には二千石を加増され、大和田原本で五千石を領することになりました。そして慶長三年(1598年)には、豊臣の姓を授かり、従五位下遠江守を叙任されます。


 しかし、長泰の出世はここでピタリと止まります。七本槍加藤清正福島正則加藤嘉明らが十万石以上の大大名と成る中で、長泰一人が取り残されてしまいました。原因は諸説あり、伝わっているほどの武功が無かった、性格が猛しいので秀吉に疎んじられたなどです。後者については「太閤記」の記述で次のようなものが有りました。

「この心猛く、秀吉卿に背くこと度々有しなり、これによりて領地少しとかや」

 
こんな話を読んだことがあります。
長泰は同じ七本槍の仲間の加藤嘉明と、幼い頃から仲が良く、嘉明の屋敷を訪ねていっても玄関から、「左馬助はおるか」と大声を掛けて、ずかずかと上がり込む間柄でした。
ある日いつものように嘉明の屋敷で話をしている時、ふと以前に長泰が取り立てて、中間から侍になった某と云う者のが、嘉明の元に仕えていることを思い出し、嘉明に尋ねます。

「そういえば、あの某にいくら知行をやっているのだ。二百石か三百石か」
「いや、もっと上だ」
「それでは千石か」
「いや、もっとだ」
「では二千石」
「いや」
「えい、では五千石もやってるというのか」
「そのとおりだ」

嘉明は無言で下を向いてしまいました。長泰は言葉を失い、そのまま黙って外へ出てしまいました。
自分の紹介で侍になった小物が、自分と同じ五千石になっていることに、呆然としたのです。また「自分は七本槍の他の者に、遅れを取るような働きではない」と忸怩たる思いもあったのでしょう。しかしこの時、加藤嘉明は十万石の伊予松山城主で、遥かに仰ぎ見る存在になっていました。


 慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで、平野長泰徳川家康の東軍に味方しました。長泰も武辺者ですから、石田三成とは折り合いが悪かったと思います。しかし、働きを記録した史料は何もありません。役後の論功行賞でも、加藤清正福島正則が大封を得たのに比べ、本領の大和田原本五千石を安堵されただけですから、大した活躍が無かったようです。慶長十九年の大阪の役では、豊臣姓まで与えられている長泰を警戒して、江戸で留守居役を命ぜられ、大阪城落城後にやっと国に帰ることが許されました。
 徳川の治世になると、長泰は駿府城近くの安西に屋敷を与えられ、家康の安西衆(御伽衆)の一人となり、家康の死後も二代将軍秀忠の御伽衆を勤めました。長泰は寛永五年(1628年)五月七日、安西の地で、七十歳の天寿を全うしました。


 平野家はその後も存続して、五千石の交代与力として幕末まで続きます。交代与力とは旗本と異なり、諸大名並の待遇を受けますが、一万石以下で参勤交代の義務がある分、同録の旗本より経営は大変だったと思います。
慶応四年(1868年)七月、当代平野長裕のときに、実収入一万一石八斗となり、田原本藩が成立したので、初代長泰が大和田原本五千石を拝領してから二百七十二年後に、待望の大名になることが出来ました。
しかし、それもつかの間の名誉です。明治四年(1871年)、廃藩置県で廃藩となると、田原本奈良県編入され消滅し、三年間の大名で終わってしまいました。


 豊臣秀吉の天下取りを助けた英雄「賤ヶ岳七本槍」の一人、平野長泰は出世は出来ませんでしたが、高禄を羨んだ福島正則加藤清正加藤嘉明は、とうの昔に改易となり、家名はありません。長泰は、家名を永らえた意味で幸運ですから、満足すべきかもしれません。

賤ヶ岳七本槍


     岐阜城



 今回から時を戻して、戦国時代をテーマに書いていきますが、戦国時代復帰第一弾は「賤ヶ岳七本槍」です。
これを選んだ理由は、とりあえず七回分が決まってしまうので、何を書こうか悩まないで済むと思った、安易な考えからです。しかし簡単ではありません。福島正則加藤清正は有名で、逸話も沢山有るので楽ですが、平野長泰あたりは資料も少なく、小説などでも取り上げた物が少ないので、書ききれるかどうか少々心配です。まだ資料も全然揃っていませんが、挫折しないように頑張って、連載しようと思っていますのでよろしくお願いします。
まずは最初に「賤ヶ岳の戦い」を、簡単におさらいしてみましょう。


 天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変で、織田信長明智光秀の裏切りで横死して、光秀も山崎の戦い羽柴秀吉に破れると、天下の権の行方は信長の重臣達に握られることになりました。重臣一番手は柴田勝家、二番手は丹羽長秀、次の明智光秀は死にましたので、三番手は羽柴秀吉となります。しかしこの時点では、主君の敵討ちをした功で、秀吉と勝家の地位が拮抗していました。天下の権と云っても、信長の遺児達が居ますので、重臣達のものではないのですが、それはあくまで建前論で、実質的な権力は、多くの配下と戦さの経験が豊富な重臣が持っていました。
 跡目相続を決める清洲城の会議で、信長の次男信孝を推した柴田勝家は、本能寺の変で死んだ長男信忠の子・三法師を推した羽柴秀吉に敗れます。これは秀吉が事前に、丹羽長秀池田恒興などの有力者を、調略しておいた事が勝因でした。勝家は太閤記などで描かれている以上に、優秀で勇猛な武将ですが、外交戦や調略戦では秀吉に一歩も二歩も遅れをとります。本能寺の変に際しても、勝家は上杉景勝越中国魚津城を攻撃中で動けなかったのですが、毛利輝元といち早く講和をして、「中国大返し」を実現した秀吉に先を越され、光秀軍を撃破されてしまったのですから、油揚げをさらわれる格好になっていました。
 清洲会議の成功で、織田家中随一の権力者になった秀吉は、大規模な信長の葬儀を行いました。名目上は信長の四男で、秀吉の養子羽柴秀勝が喪主でしたが、誰の目から見ても、秀吉が権力を継承したことのアピールであることは明らかです。これに対して劣勢の勝家が、力で逆転を考えたのは当然のことですが、結果を見てから思うと、どうも秀吉が誘った罠に自ら飛び込んでしまったようです。


 天正十年十二月七日、羽柴秀吉柴田勝家の拠点越前が、雪に閉ざされるのを待って、勝家の甥の柴田勝豊が守る長浜城を包囲します。勝豊はかねてより叔父勝家と折り合いが悪かったので、秀吉の降伏勧告にあさっりと応じ、長浜城を開城してしまいます。また勝家に呼応して立ち上がった、美濃岐阜城織田信孝も、氏家直通、稲葉一鉄ら美濃衆が秀吉の旗下に加わると、かなわぬとみて和を乞い、生母坂氏を人質に差し出し降伏しました。あくる天正十一年一月二十三日、勝家の旗下の滝川一益が伊勢で挙兵すると、秀吉は七万の兵で伊勢に侵入し、峯城、亀山城と攻略、一益の本拠長島城を攻撃します。

 雪に閉ざされていた勝家は、歯が噛みして待っていましたが、遂に同年三月九日、佐久間盛政らを前衛にした、三万の軍勢を率いて越前北庄城を出陣、近江柳ヶ瀬に布陣しました。この報告を聞いた秀吉は、織田信雄に後を託して伊勢の発ち、五万の兵を率いて木之本に到着し、勝家と対峙します。秀吉の布陣内容は、堀秀政が左称山、中川清秀が大岩山、高山重友(右近)が岩崎山、桑名重晴が賤ヶ岳の各砦、弟羽柴秀長を田上山に配置して統括させ、蜂須賀小六、生駒政勝、黒田官兵衛らを遊軍に据え、秀吉は総大将として長浜城に陣しました。その後、小競り合いは起こりますが、双方が牽制をし合って、本格的な戦闘には至りません。
 そうこうしている内の四月十七日、美濃方面が手薄になったのを見て、岐阜城の信孝が滝川一益と再度挙兵しました。鎮圧の為に秀吉は二万の兵を率いて、長浜城を出て美濃へ進軍しますが、揖斐川の氾濫で足止めされ、仕方なく大垣城に入りました。しかし結果としては、この足止めが秀吉に幸運をもたらします。秀吉が美濃に進軍したことを知った、勝家の甥で猛将の佐久間盛政は、大岩山の攻撃を進言します。膠着状態では、先に動いた方が負けるジンクスがあるので、勝家も躊躇しますが、盛政に押し切られる形で攻撃を許可してしまいます。四月二十日午前二時頃、盛政は一万五千の兵で大岩山砦を攻撃、午前十時頃に陥落させ中川清秀を討取ると、続いて岩崎山の高山重友を攻めて敗走させました。
 大岩山の陥落を秀吉が知ったのは、同日の午後三時過ぎでしたが、直ぐに大垣城を出陣し、大垣から木之本間十三里(52キロ)を、僅か五時間の驚異的な早さで移動して、午後九時には木之本に着陣しました。大岩山にいる盛政軍は、勝家から再三の撤退命令を無視して滞陣をしていましたが、秀吉の想像を超えた早い帰陣を知り、同夜慌てて撤退を始めます。しかし時既に遅く、盛政の軍は秀吉の大軍に急襲され、盛政を救援に来た柴田勝政の軍も加わると、火の出るような大激戦となりました。この段階ではまだ互角の形勢でしたが、茂山に布陣していた、勝家側の前田利家が突如退却を始めると、不破勝光、金森長近が相次いで戦線を離脱します。この三人は既に秀吉に調略されていたのですが、これを契機に勝家軍は劣勢となり、盛政軍、勝政軍も撃破されて、秀吉の大軍は勝家の本陣に殺到しました。もはや勝家軍には支えきる力は無く、北庄城に撤退をしますが、退却戦でも多数の将兵を失い、逃げ込んだ城は秀吉の大軍に包囲されて、勝家は自ら城に火を掛けて、燃え盛る天守閣で妻お市の方とともに自刃しました。
この戦いに勝った事で、羽柴秀吉は信長の唯一の後継者になると同時に、天下取りの道が開けてきました。


この賤ヶ岳の合戦で活躍した、秀吉恩顧の武将が「賤ヶ岳七本槍」です。

福島左衛門大夫正則
脇坂中務少輔安治
加藤左馬助嘉明
片桐東市正且元
加藤肥後守清正
平野遠江守長泰
糟屋助右衛門武則

実際は、他にも同様の活躍で恩賞を受けた者が居たのですが、今川義元織田信秀が戦った時の「小豆坂七本槍」の故事に因み、語呂も良かったので「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになりました。秀吉は卑賤の身から立身出世し、先祖代々の家臣が居ませんから、この子飼いの武将達の活躍を宣伝することで、自分の名声を高めようとしました。また秀吉は、七人とも身近に置いていた小姓ですし、可愛がってもいましたから、名誉を与えることで、これから自分の家を支えて貰いたいと思ったでしょう。


 さて、次回からこの七人を、一人ずつ紹介をしていきます。
しかし、子飼いの武将「賤ヶ岳七本槍」ですが、人の心を読む達人秀吉も、まさか自分の死後、天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、豊臣方に味方したのが七人中一人だけだったとは、この時は思いも寄らなかったでしょう。

日本刀のはなし



 九月四日から「はてなダイアリー」を書き始め、今回で五十回目になりました。「五十回だからどうした」と云う感じですが、まあ、一応は区切れににはなるのでご報告しました。自分としては、まずまずのペースなので、この調子でやっていこうと思います。


 今回は日本刀についての「小ネタ」を書きます。
日本では銃刀法がありますので、持ち歩いたり簡単に買うことは出来ません。依って、大抵の人が実物を手に取って見る機会もないので、私も同様ですが、刀剣店のショーケースか博物館でしか見たことがありません。しかし、ほとんどの人が時代劇の影響で、どのような形なのか、どのように使うかをよく知っています。普通の人が日本刀を考えると、「包丁のよく切れる物」ぐらいのイメージでしょうが、とんでもありません。本物はとてつもなくよく斬れるのです。

 慶長二十年(1615年)、大坂の役では柳生但馬守宗矩が、主君徳川秀忠の陣に殺到する木村重成の鎧武者七人を、たちどころに斬り伏せました。鉄の鎧や兜を、太刀で斬ることが出来るのか、不思議だったのですが、本当に斬れるようです。
幕末の剣豪、鹿島神傳直心影流・榊原鍵吉友善は徳川家に代々仕える直臣ですが、勝海舟の従兄弟で、江戸随一の剣聖と云われた男谷精一郎の弟子でした。榊原は明治二十年(1887年)に催された、明治天皇天覧武術大会で、「鉢試し」を行い、見事にに成功しました。「鉢試し」とは上質の鉄製兜を剣で斬るのですが、その日は既に二人が失敗をして、三人目の榊原が愛刀の同田貫で挑むと、見事刃は兜に五寸程食い込みました。同田貫には刃こぼれ一つ無かったそうです。この場合は物を置いたまま試す、「据物斬り」ではありますが、乱戦の中で斬った柳生宗矩は畏るべき剣の使い手であったと推測できます。「鉢試し」では、僅か五寸の切込みでしたが、実戦で生身の人間が被っていれば、頭蓋骨を破壊するのには十分です。


 日本刀の斬れ味の秘密は、その構造にあります。日本刀は四種類の鋼から出来ており、それぞれ心金、棟金、刃金、側金に分かれています。それぞれの鋼を丹念に重合わせ、高温で加熱してから叩き伸ばし不純物を取り除き、刀身を冷水に漬けて「焼入れ」をします。日本刀の焼刃を顕微鏡で見ると、大小の粒子から出来ていますが、粒子の大きい物は、肉眼でも識別することができ、鑑定する際の「煮え」と呼び、肉眼で識別出来ない物を「匂い」と呼びます。「煮え」は刃文と呼び、白く光っている部分が、マルテンサイトと云う物質、黒い部分がトルースタイトと云う物質です。前者は極めて硬く、後者は比較的柔らかいので、刀を研ぎ仕上げしていると、柔らかいトルースタイトは磨り減り低くなり、硬いマルテンサイトが残ります。これが斬れ味と、どの様に関係するかと云うと、刃の面がデコボコしている為、表面積が小さくなり、切断物に当たった時の摩擦係数が少なくなる訳です。肉屋さんが包丁を鑢(ヤスリ)で研ぐのは、これと同じ原理です。


 刀ではありませんが、徳川家康の忠臣・本多平八郎忠勝の槍は、「蜻蛉切」と呼ばれ、槍先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったと云う逸話から命名されました。そんな間抜けな蜻蛉がいるのか、信じられない話ですが、何かの弾みで当たった時に斬れたとすれば、あながち眉唾とも思えません。


 さて、「幕末物」を暫く書いてきましたが、少々飽きてきたので次回からまた戦国時代にテーマを戻します。
最近テレビのニュースで見たのですが、「戦国武将ギャル」と云われている、武将ファンの若い女性が増えていると報じられていました。武将好きは、「親父」の趣味と思っていたので驚きです。戦国武将の何が、現代女性の注目を浴びているのか気になるところですが、これを機会に、この日記も若い女性の読者が増えてくれれば、楽しみも増えます。

否、若い女性に「迎合」する、親父のやらしさではありませんので、ここで言い訳をしておきましょう。

旗本と御家人 そして商人

 
 浅草料亭「八百善」献立  ※享保二年(1717年)創業、ペリーも接待で食事をした名店


 勝海舟の曾祖父は、越後小千谷出身で名前も分かりませんが、盲人だったそうです。江戸に出てから按摩をして金を蓄え、十万両の身代になり、地所も十ヶ所持っていました。どの様に金を稼いだかは定かではないのですが、まず間違いなく高利貸しだと思います。江戸時代には、盲人の金貸しが手厚く保護されており、貸倒れなどほとんど無かったので、巨万の富を手に入れたのでしょう。また特別な商才があったのかもしれません。曾祖父は金で買官して、盲人で最上位の検校に就き、長男忠之丞には御家人男谷家の株を買って幕臣にして、姓を改め「男谷検校」と呼ばれるようになりました。男谷検校の三男平蔵は妾に子を作りますが、その子が海舟の父小吉で、平蔵は小吉に旗本勝家の株を買ってやりました。
 一体、この頃の旗本や御家人は、前回説明したように大変に貧乏でしたので、背に腹は変えられず、金で家督を譲渡することがありました。それは幕府に限った事ではなく、土佐藩坂本龍馬も元々の家は商人でしたが、郷士株を買って武士になったのです。但し、金さえ払えばいきなり町人が、次の日から二本差しになったのではありません。御家人ならまだしも、旗本ともなれば形式上でも養子になるか、娘の婿養子にするかは必要で、その持参金の名目で金を受け取ります。初代検校が御家人男谷家の株を、三万両で買ったと云われていますので、旗本勝家でしたら相当の持参金を持っていって養子になったと思われます。


 小吉が隠居して夢酔と号し、家督を麟太郎(海舟)に譲った話は前回も書きましたが、当時は大変な貧乏暮らしでした。旗本になる為に金を掛けすぎたか、或いは無役の旗本暮らしで使い果たしたのか、どうして初代検校の財産が無くなったか、理由は分かりません。そんな当時の暮らしぶりを、海舟の談話集「氷川清話」に書いてありました。

 海舟は若い時に書物を買う金が無くて、いつも日本橋の書物屋で立読みをしていました。店主の嘉七という男は、理由を察していますので、立読みを黙認していましたが、ある時に北海道の商人で渋田利右衛門という者を海舟に紹介しました。渋田は豪商によく居る勉学熱心な人物で、江戸に出たときは金を惜しまず、珍本や有益な機械を買い求めていました。渋田は海舟を気に入り、交際を願い出ると、無理矢理に自分の泊まっている宿に引っ張って行き、その日はゆるりと談笑したそうです。二、三日すると、渋田は自分から海舟の家を訪れ、粗末な家もまるで気にせず話をしていました。昼になると「私が蕎麦を奢りましょう」と言って、財布から銭を出し、一緒に食べてまた平気で居ます。いよいよ帰りがけになると、突然懐から二百両の金を出し「これで書物でも買ってくれ」と言いました。あまりの出来事に返事も出来ない海舟を見て、渋田は、

「いやそんなに御遠慮なさるな。こればかりの金はあなたに差上げなくとも、ぢきにわけなく消費ってしまふのだから、それより、これであなたが珍しい書物を買ってお読みになり、その後を私へ送ってくだされば、何より結構だ」「氷川清話」より

と言って、強いて置いて帰ってしまいました。その時、同時に罫紙を渡して「面白い蘭書があったら翻訳して、この紙に書いて送って下され、筆耕量も二百両の内から払ってくれ」と言います。渋田は、海舟が紙代さえ乏しいだろうと思い、置いていったのです。
渋田はその後も海舟を援助していましたが、海舟がやっとお役を受けて、長崎に海軍術修行に行く時には、自分の事のように喜びました。しかし、海舟が長崎に行っている間に、渋田は若くして死んでしまいます。渋田の恩を徳としていた海舟は、大変残念がり、維新前に函館奉行に話をして、渋田の遺児達に帯刀を許すように働きかけてやりました。書物屋の嘉七が言うには、渋田は書物だけで年六百両を費っていたそうです。
 男同士の友情の美談ですが、金持ちの商人と貧乏旗本の対比がよく分かる逸話です。


 天保八年(1837年)、老中水野越前守忠邦は「天保の改革」で、町人の奢侈(贅沢)を厳しく禁止します。金持ちは表面だけ質素に見せかけ、実際は人目に立たない新道などに邸宅を構え、柱は鉋(かんな)が掛からない物をわざわざ選び、黄金の道具があっても燻して、金と分からないように使っていました。その頃の逸話で面白い物が、また「氷川清話」にありましたので紹介します。


 海舟が「中年の頃」と書いてありましたので、もう要職に就いて、生活も大分良くなっている時期だと思います。諸侯の御用達を勤めている商人が、紹介者を通じて、是非一盃献じたいと海舟に申し入れ、了解して浜町の邸宅を訪問しました。家の造作は極質素ですが、なかなか凝った造りです。しかし御馳走が、蒲鉾が一切、青菜のお浸し、吸い物の三品だけで、酒を振る舞い、帰りがけに饅頭を三つ土産にくれただけです。海舟はこの時、「わざわざ馳走したいと呼びだして、遠方から訪ねたのに、なんと粗末な扱いだ」と随分と腹を立てて、土産の饅頭は仏壇に供え、いつの間にか子供が食べてしまい、海舟自身の口には何も入りませんでした。
 四、五日して商人の紹介者が訪ねて来て、土産の饅頭は食べたかと聞きます。海舟は子供が食べてしまったと言うと、大変残念そうな顔をして、あの饅頭は特別な製法で、かれこれの苦心で作ったと子細を説明しました。小豆は幾升という高級品種で、粒の揃った物を厳選して餡を作り、砂糖は棒砂糖という、外国でも重宝されている材料を、何日も枯らして使い、水も玉川上水の取水まで、汲みにいった水を使ったと言います。蒲鉾は鴨を三十羽捻り、背肉のみを少しずつ選んで用い、青菜も茎の揃った物を、十籠二十籠から選んで煮浸した物だそうです。紹介者は御存じ無しに召上がるとは、情が無いとこぼし、海舟もそれは気の毒なこ事をしたと思ったそうです。

 
 こんな具合に、商人の金持ちは諸事、贅沢を尽くしていましたので、維新革命後に西郷隆盛を除き、政府の要職に就いた元士族の者達は、皆贅沢をしましたが、長年貧乏暮らしの反動だったのかもしれません。



 

江戸風流「食」ばなし (講談社文庫)

江戸風流「食」ばなし (講談社文庫)

旗本と御家人 

 江戸時代は元禄期以降、幕府も諸藩も財政が逼迫していましたが、その原因は二つ考えられます。
一つは鎖国をして外国との貿易が無くなり、内需は米を生産する以外の大きな産業はありませんでしたから、経済が成長しませんでした。二つ目は、戦争がなくなり太平の世となりましたので、武士が「無為徒食の輩」になってしまったからです。武士は役人の仕事をしたわけですが、幕府の旗本・御家人は約二万人(※1)も居ましたし、諸藩も同様で全員が仕事にありつけるわけではありません。おのずと、ただ飯食いを大量発生させてしまったのです。幕府も諸藩もと、文頭に書きましましたが、諸藩より幕府の方が一層大変だったようで、維新革命で幕府が倒れたのも、極論で言えば財政難が原因だったとも考えられます。
旗本と御家人は幕府の財政悪化の煽りを受けて、大変貧しい生活を強いられます。今日はこの旗本と御家人の生態を書きたいと思います。


 旗本と御家人の違いは、共に一万石以下の直臣ですが、御目見以上(将軍に拝謁出来る資格)が旗本、御目見以下が御家人です。基本的に旗本は知行地を持ち、そこから年貢を取り立てて俸禄にしていたのですが、現実には江戸に在住する者が多かったので知行権を行使することは難しく、蔵米取り(幕府の米を俸禄として支給)と余り変わりがありませんでした。御家人は戦場では徒士の武士、平時でも馬に乗ることは許されず(与力など例外は有る)、家に門を設けることもできません。三代続けて重要な役職に就けば、旗本に昇格する機会はありましたが、多くは町奉行所の与力のような低い身分の役人です。それでも仕事が有れば良い方で、無役の旗本や御家人は沢山居て、生活は困窮を極めていました。

 時代劇を見るとよく聞かれる、「百石取り」や「三十俵二人扶持」は旗本や御家人の俸禄(年収)です。石高で表すものは前述の知行取りで、「百石取り」ならそれが収入というわけです。一石は十斗、一斗は十升、一升は十合で、一俵は四斗ですから、一石は一俵の2.5倍相当になります。しかし知行取りは石高を全て、自分の物にする事は出来ません。石高は知行地の生産量で、そこから税として取るわけですから、「四公六民」とすれば実収は石高の四割。百石取りなら四十石が収入となり、俵に直すと約百俵です。実質手取りで、簡単に考えると「石高=貰う俵の量」となるわけです。

「三十俵二人扶持」の俸禄は、知行取りと違い、蔵米から支給されます。三十俵は蔵米取りの分で、加えて扶持米として二人扶持が支給されます。扶持米とは戦国時代からの名残で、下級武士に与えられる手当の一種です。一人扶持は五俵ですから、二人扶持で十俵、蔵米分と合わせると、「三十俵二人扶持」は四十俵の年収になる計算です。現代の貨幣価値に変えて考えると、「百石取り」や「三十俵二人扶持」なら、なんとか生活は出来る収入ですが、苦しくなる要因がありました。それは俸禄の支給方法です。


 旗本や御家人の俸禄は、年三回に分けて二月、五月、十月に貰いますが、荷車に米を積んで家に持って帰ったのではありません。札差という商人が、俸禄分の為替と交換して現金を渡します。札差が米を換金する値段は、江戸城内の中之口に「御張紙値段」として掲示され、その時期の相場に合わせて支払われる仕組みになっていました。札差は換金の手数料を取ることと、俸禄米を担保にして、旗本や御家人を相手に金貸しをして利益を上げます。
時代劇では、悪徳商人の代名詞のように札差が登場しますが、実際に相当悪辣な手段で金儲けをしている者もいました。方法は御張紙値段が表示される時期を狙って、米の相場を下落させ蔵米を安く仕入れ、その後暴騰させて高く売抜く価格操作です。中には役人に賄賂を渡して、直接に御張紙値段を相場よりさらに安く掲示させる、悪どい方法もあります。そしてそれに共ない、貧苦の旗本や御家人には高利で金を貸し、奥印金(※2)という名目で利率をつり上げ、書き換えの度に手数料を取るなど搾取を重ねました。旗本や御家人の中には、何年も先の俸禄が借金の担保になっている者もいる有様です。

 一方の札差は僅か百件余りで、この巨大な権益を独占して、巨万の富を蓄えていました。文政二年(1819年)の調査では、札差の泉屋甚左衛門店が六万四千俵余を扱い、それでも業界では三番目だったとあります。また同店の天明八年(1788年)時点での貸付額は四万二千五百両にものぼっていたそうです。札差の中には、年給二百両を取る手代を何人も抱えている者もありましたが、二百両は千石取りの武士の年給に匹敵するほどです。士農工商身分制度はあるのですが、旗本も御家人も肩書きだけで、富は商人に集中していったわけです。旗本といえば、大藩の家老と雖も陪臣ですから、同じ座敷に座る事も出来ない身分ですが、偉いだけでは腹の足しにはなりません。


 勝海舟の家は、三河以来の御家人で宝暦二年(1752年)に旗本に昇格した名家ですが、禄高は百石程度で若い頃は相当な貧乏でした。家督を父小吉から継いだ頃は、持家を四両二分で売払い、同役の家の敷地を借りて住んでいたのですが、天井板は薪に使ってしまい一枚も無く、座敷も破れた畳が三畳ほどあっただけです。正月は餅を買う金も無く、親戚の家から貰ってきたこともありました。父小吉は才人ですが道楽三昧の人でしたから、百石の俸禄があっても、小吉の代から借金などで生活は苦しかったのではないでしょうか。

 さて、今回はこのくらいにして、次はこの貧乏な旗本・御家人と裕福な商人を、対比させて書こうと思います。次回も宜しく御願いします。
 


※1 「旗本八万騎」とよく云われますが、これは旗本や御家人の家来(陪臣)を合わせた数で、約八万人いたそうです。
※2 奥印金とは貸付ける金が札差に無い場合、他から借りて又貸しする事です。その為に更に手数料を取るのですが、実際には金持ちの札差に金が無いわけはなく、名目だけ借りてくることにして、手数料を上乗せしている場合が殆どです。


江戸の旗本事典 (講談社文庫)

江戸の旗本事典 (講談社文庫)

泉州堺事件と切腹 その弐


 今回は「R-15」としましょうか。或いは想像力が豊かな方は飛ばしてください。


 
 切腹の習慣は平安時代末期から起こり、武士の自殺の手段でしたが入水自殺などもあり、必ずしも切腹して自殺をしたわけではありません。初期の切腹で有名なのは、「義経記」にある佐藤忠信の例です。源義経追討の宣旨で北条氏に追われることになりますが、文治二年(1186年)一月六日辰の刻(※)、京都六条の堀河の館で大軍に包囲され、もはやこれまでと腹を切って果てました。
「剛勇な兵が腹を切る有様を御覧あれ」
と大音声に叫ぶと、十文字に腹を切り傷口に手を入れ腸を掴みだすと、刃を口にくわえ前に倒れて喉に突き刺し絶命したと書いてありました。この行為が影響してか、源義経も奥州平泉で追い詰められると、付添った増尾十郎兼房に「佐藤忠義の様に切口が大きい方が良いのだな」と確認して十文字に腹を切り、腸を掴みだしたそうです。これも「義経記」に記録があります。

 当時の切腹は、刑罰という意味合いは無く、敵に捕らえられ斬首刑になる恥辱を味あわない為の手段だったわけです。また派手に腹を切って臓腑を取り出すという行為は、吾妻武士の気風で勇猛であることを顕しているのと同時に、新渡戸稲造の「武士道」にあるような、腹部に込められた霊魂を解放し、自分の身の潔白を訴えるために、文字通り「腹を割って」抗議する意味合いもあるわけです。このような臓腑を露出する方法で腹を切ることを「無念腹(遺恨腹)」と呼び、前回書いた「泉州堺事件」の箕浦猪之吉がこれに当たります。

 鎌倉時代末期になると、元弘の変(1331年)で村上義光が、大塔宮護良親王の身代わりとして自害する時に、
「只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹を切らんずる時の手本にせよ」  (太平記 巻第七)
と叫んで腹を切り、臓腑を掴み出し敵に投げつけた(とても信じられませんが)逸話があります。手本にしろと言うぐらいですから、当時はこのような壮絶な切腹が、それ程普及していたわけでは無いように思えますが、その後戦国時代になると、切腹のやり方がどんどんエスカレートして、派手で壮絶に行うことが勇気の表現になっていきました。
 逆に徳川時代になると、切腹も形式化、儀式化して、「無念腹」は見苦しい上に、公儀に対して反抗的な態度ととられ忌まれるようになります。聞いたことがあると思いますが、刀を持たず扇を当てるだけの「扇腹、扇子腹」というものがあります。これは武家社会では、武士にあるまじき臆病な行為と言われていましたが、実際には刀を使って行う場合でも、三方の上の刀に手を掛けた瞬間に、介錯人が首を落とすケースが多かったそうです。「忠臣蔵」の歌舞伎でも切腹の場面は、観客の袖を絞る一番の見せ場ですが、大石内蔵助の他数名以外は、「扇腹」だったのが事実のようです。


 しかし幕末になると、殺伐とした時代になりますので、切腹の様子も一変して中世のような形式に逆戻りです。土佐藩の志士武市瑞山(半平太)は、「三文字腹」の切腹を見事に行うのですが、このような場合は事前に介錯人と打ち合わせが必要です。そうでないと、三文字に腹を切る前に首を刎ねられてしまいかねません。それでも瑞山の場合は大変で、三文字腹は成功したのですが、座していることが出来ず前に突伏したので、介錯人は首を斬らずに後ろから心臓を貫いて止めを刺しました。腹を三筋に切れば、腹筋は完全に切断され、腹膜が内臓の圧力に耐えられずにはみ出し、腹壁が空気の抜けたボールの様になりますから、刃が滑って切り難くなります。何よりも、意思の力を越えるであろう激痛で、身体中の筋肉は硬直して思うような姿勢が保てず、失血で気を失うかもしれませんから、本人は当然ですが介錯人も大変難渋するわけです。
 三島由紀夫切腹した時、森田必勝が二度三度と介錯を試みますが果たせず、首は床で押し斬りにしました。三島の「解剖所見」が朝日新聞に掲載されましたが、切口は左腹から右腹へ十三センチを真一文字に切って、深さは約五センチあったそうです。とても姿勢を保ってはいられなかったと推測できますから、森田の不手際を責めることは出来ません。その後森田も腹を切り、同行した盾の会のメンバー古賀浩靖が介錯しましたが、森田はその時に、殆ど腹を切っていません。臆したのではなく、三島の末期を見ていたので、介錯をし易くする為にそのようにしたと思われます。そもそも三島の切腹介錯人を頼むやり方ではなく、薩摩の「人斬り」新兵衛のように、自分で喉などを突いて絶命するのが正しい方法と識者の批評にありました。
以上の分析を考慮すれば、「泉州堺事件」の箕浦の「十文字腹」や、武市瑞山の「三文字腹」が、如何に超人的な行いなのかはご理解戴けると思います。


 以前に若いボクサーが「負けたら切腹する」と公言して恥を掻きましたが、切腹は並大抵の精神力で行える事ではありません。介錯人がいればまだしも、腹を切って腸が垂れ落ちても、人間は簡単には死ねないのです。切腹して失血死を待てば、激痛のまま数時間掛かりますし、腸を傷つけて腹膜炎を起こしても直ぐには死ねません。先の大戦で、海軍中将大西瀧治郎は特攻隊の責任を取って、敢えて介錯人を付けず切腹しましたが、半日以上苦しんで死んだそうです。
格闘技を生業とする者が、「武士道」の精神を取り入れるのは多いに結構な事ですが、まず学ぶべきは対戦相手と雖も尊重し、目上の者は敬う、武士の「孝徳」の心を知るべきでしょう。「切腹」などという言葉を、軽々に口に出すことは許されないのです。

尤も、切腹は「真の武士」にしか赦されない、名誉ある死に方ですから、始めから資格もありませんでしたが。


※「吾妻鏡」では文治二年九月二十二日なっておりますが、本文の詳細は「義経記」を参考と致しました。



武士道 (PHP文庫)

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